「同じ原作なのに…」
タルコフスキー版と比較したくて鑑賞した。原作は同じなのに、全く違う映画になっていた。原作はSF小説の傑作と絶賛されているようだが、読む人によっては冗長で難解と感じるようである。結末にはオチがないので、そこが解釈の分かれるところなのだと思う。以前に削られていた部分を補った完全な翻訳本が出ているようだが、読んでみようという気は起きなかった。
惑星ソラリスの軌道上にある宇宙ステーションの名前は「プロメテウス」である。このギリシャ神話の神様はSF映画界で人気者なんだなあと思い、どんな神様なのか少し検索してみたのだけれど、複雑怪奇でよくわからなかった…
このソダーバーグ版は、タルコフスキー版ほど難解というイメージはない。クリスとレイア(なぜかハリーではなくてレイアになっていた)の出会いと突然の別れのシーンが入っているせいかもしれない。また、SF映画らしく宇宙ステーションの内装もそれらしく作られているので、私にとっては違和感がないレベルだった。どうやって遠いはずの惑星ソラリスに行くのかはやっぱり描写されていないので、原作そのものにないのだろうと想像した。原作では「ソラリス学」と称して、ソラリスの海について延々と講釈されているという。どうやって行くかなどどうでもいいことで、ソラリスの海の上にいることが重要であることがなんとなくわかる。
ソラリスの海は、人間の脳を驚くべき方法で操作する。その目的が何であるのかはわからない。その人にとって一番重要だと思っている人物が生死にかかわらず(だと思うのだが、違うかも…)目の前に出現する。クリスの場合は、レイアである。「ありえない!これは本物のレイアのはずがない!!」そう思いながらも、目の前の「異生物」にのめり込んでいくのだ。
そして、目の前にいる人間は、本物なのか「異生物」なのか。そっくりなので見分けがつかない。このあたりは、ちょっとホラーの要素もあるような気がした。「遊星からの物体X」みたいな感じである。
この映画の最大の失敗はジョージ・クルーニーだと思ったのは私だけ?どこから見ても宇宙に乗り込んでいく人物には見えない。心理学者にも見えない。クルーニーではない俳優さんがクリスを演じていたら、もっと点数が高くなったと思う(笑) レイアを演じているナターシャ・マケルホーンが及第なので、よけいに(この人、違うよねえ…)と感じてしまった。久しぶりにクルーニーを拝見したが、顔も体型も声もコテコテに濃くて、あらためて苦手なタイプだと実感したのでした…