東京キネマ

めしの東京キネマのレビュー・感想・評価

めし(1951年製作の映画)
3.5
本映画の原作は、朝日新聞連載中に著者林芙美子の急逝により未完のまま絶筆となっております。 ですので、映画の後半からエンディングまでのお話は、後付けの解釈です。


(※以下、ネタバレを含みます。)
映画の企画が連載と同時に進んでいたのかどうかは知りませんが、林芙美子が泉下の人となったのが昭和26年の6月28日、映画の公開が同年の11月23日ですから、5ヶ月足らずで結末の補筆から、脚本、撮影までやったことになる訳で、とんでもなく短期間で製作したことが分ります。 監修に川端康成がクレジットされているのは、当然この結末をどうするかの判断を仰いだものだと思われますが、全体的なテイストは飽くまで成瀬巳喜男調になっているので、後のいちゃもん付け回避の計算かも知れません。
林芙美子が書いたなら、「原節子が離婚を踏みとどまって上原謙の元に戻る訳はない」、という熱烈な林芙美子ファンも居たそうですから、ここらへんの戦略に手抜かりはなかったようです。 それにしても、未完のお話の結末を考えるというのは、はっきり言えば、作者が考えただろう結末にしないことの方にこそ意味があるので(というよりもなる訳ゃない)、それはまた別のお話です。


原作を読んでいる訳ではないので私の想像に過ぎませんが、このお話のキモというか狂言回しは、飽くまで途中で転がり込んでくる里子でして、この変に色っぽい姪っ子が亭主の上原謙に色目を使い、夫婦の倦怠期が一挙に夫婦の危機に発展してしまうことで、単なる痴話喧嘩程度のストーリーが男女それぞれの人生ドラマに昇華されていまして、矢張り成瀬巳喜男の慧眼だろうと推察します。 簡単に言えば、林芙美子の小説の世界観は、どう考えても言葉でしか伝えられないものでして、むしろ名文・美文の映像化を放棄して、物語の背後にある男女のどうしようもない生き様の違い、理屈と感性のズレみたいなものにフォーカスして作為するという割り切りがこの映画の価値だろうと思います。

しかし、どうも私が観てきた成瀬巳喜男の映画とはちょっとニュアンスが違っていて、冷静に見ればこれは単なる浅はかな女の独り相撲のお話でして、亭主の上原謙には一切の瑕疵もなく、朴訥で真面目な男を何で信頼しないのか、と思えてしまう訳です。 尚かつ、途中で遠縁の男によろめいちゃったりするような女でして、そこに原節子の演技力で増幅されて、増々世間知らずの嫌な女に見えてしまうという、どうも座り心地の悪い映画で御座いました。 Wikiによれば成瀬巳喜男が大スランプから脱した一号映画ということらしいですが、ああ、そうか、考えてみれば後年の円熟期の映画しか見てないもんなあ、と納得した次第です。


蛇足ですが、この映画は当時の大阪のロケーション撮影をふんだんにやってまして、昭和26年と言えば、日本全国焦土と化してからたった6年しか経っていないのに、何だこの復興は!、さすが日本人!、と思ったり、劇中で隣組で靴が盗まれると、古女房が “明日、お父ちゃんは下駄で会社に行ってもらわんとね・・・” とのんきな大らかさに感動したりとか、全く映画と関係ないところで癒されました。

どちらにしても、成瀬巳喜男ファンなら見ても損はない映画だと思います。
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