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婦系図(おんなけいず)のニューランドのレビュー・感想・評価

婦系図(おんなけいず)(1934年製作の映画)
4.3
 映画は風俗に従い、科学の進歩や興業形態変化の影響を受けやすいので、劣化が激しく、古典の歴史的価値はともかく、今の劇場に掛けても、刺激や満足はなく、古臭くなってる物が殆どというが、そうだろうか。1910年代の作でも、今掛けて年間ベストに相当する作は結構あると思う。米のグリフィス·トゥルヌール、仏のフィヤード、伊のジェニーナ、独のルビッチ、北欧のスティルレル、らの(緒)作。日本は流石にそんな大傑作は思いつかないが、’20年代からならかなりある。そのトップランナーが芳亭で、後続を入れても日本映画監督史の10人に入ると思う、知名度で高い黒澤明に引けを取らない。撮影所の所長として松竹調を作った人としてしか歴史的記述はないが、個人的には映画史上有数の監督だと思う。
 本作を以前に観たのは20世紀だったかも知れないが、変わらず大傑作である。原作のダイジェスト·アレンジは成功してるかどうか分からない(飯田町に移り、お蔦の存在を隠しての新婚生活から。短縮版である可能性も。シーン繋ぎがラフめ)。しかし、映画総体の力·熱だ。御輿、火鉢と鍋、(いるらしい)蛙、階段、月、梅、ベンチ、夜の川面、月、財布(の中)、書かれた紙、ナイフ、人形ら、結った髪、団扇太鼓、花街の囃子の音、それらはアップで抜かれたり·カメラが弄る中に入って来たり、美術や音響として囲ったりする。しかし、単独での強調はなく、視覚的·時間的·感覚的全体を強め、一体化して居る一部だ。パンをスーとや、横へ長くの(足元)フォロー横移動、前後斜めかなり自由に縦断、のカメラワーク、カットのマッチがおかしく、合ってなかったり、僅かのサイズ·角度変の反美学、グイグイ全体を引き連れてねカットの押し重ね、それらはルーチンワークを離れ、新鮮で力が漲り、特定ストーリー進行を阻む。人の出入りや配置の対称·シンメトリーをかすり、それ以上の力を張り出し。
 何より、山口出身の絹代も含め、静岡からの人間を除き、皆が江戸前だ。語り口、気っ風、面構え。それを動かす根っこが存在し、周りに負けず張りあい·揺るがない。演出の力か·作品と時代への挑戦姿勢か。絹代の熱演、渾身ぶりは震えがくるくらいで、やはり二十代の彼女は天才ぶりを隠さない。(不良時代の言葉蘇リも滑らかに続く)主税も含め、キャラや台詞廻しに遠慮なく存分、江戸色の迷わず押込みだ。「赦す。2人を離したも、隠れて会うは容認したつもりが、そこまで···。私が悪かった、許してくれ」。その「2人の命併せたより、大恩ある」先生への認識ぶりや、先生の娘と実母の再会流れ併置も感動的(、お蔦も主税戻って暫く生きてる)で、単に受け身だけでない、生命滅びも自ら本意でない意地で招くお蔦の、一挙手一投足とニュアンスが圧巻、勿論面魂も。トーキー初期で、録音を気づかって敢えてのろく喋ってるのが、少し引っ掛かるも、その違和もやがて消える。その場に居合わせてるような、全てを受けとめ切れての、感動がくる。スマート·効率·バランスを越えた、真の力·絡まり進む真実がある。凡庸な息子とは別物だ。『婦系図』は何回も(名匠により)映画化されてるが、ごく初期か、或いは初映画化か、意気が漲ってる。
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