ヤドカリ亭

八日目の蝉のヤドカリ亭のレビュー・感想・評価

八日目の蝉(2011年製作の映画)
3.3
『あの風景に戻りたい』
私が産まれたのは瀬戸内海の島だった。穏やかな海に囲まれ、穏やかに育った。

両親は元々その島とは縁もゆかりもなかったのだが造船会社に職を得て、姉2人と両親の家族5人は戦後の混乱期にも関わらず、静かに暮らせる環境だった。

映画の中の希和子と薫の場合がそうであったように島の人達は情に厚かった。近所に住むお姉さんはまるで本当の弟のように幼い私を「トンボ、トンボ」と抱き上げ可愛がってくれた。なぜ「トンボ」とあだ名をつけたのかは分からない。

その当時、島の子供達の遊びのひとつに「お見送りごっこ」が流行った。島の波止場からは本土と往復する渡船が発着する。

子供達は見知らぬ渡船客に紙テープの端を持ってもらい、自分の方はテープの輪っかの中に短い棒を通して両端をシッカリ握った。

船が出航すると同時に輪っかは勢いよくクルクル回り始め、赤、青、黄色の紙テープが踊りながら海の上を伸びていく。そして渡船は遠ざかりヨレヨレになった紙テープが波間に漂った。

その光景はたとえ偽物の別れであっても、物寂しく甘酸っぱい感情を引き起こし、いつまでも記憶の片隅に留まった。

たまさかの休日には対岸のO市まで渡船に乗って遊びに行った。母と遊園地のボートに乗り、滴り落ちるソフトクリームを必死で舐めた。

幼い私を乗せた父の肩車はとんでもなく高い場所に感じられ、父の頭にしがみついた。

無邪気な母の笑顔と家族を支えて得意げな父の表情は、記憶の中でセピア色に染められ、繰り返し再生される心の風景となった。

あの風景に戻りたい。

その後父は仕事を失い島を出ざるを得なくなり、家族は水道さえない生活を余儀なくされた。母は隣家の井戸からバケツで汲み上げた水で炊事洗濯をこなし、屈(かが)まなければ立っていられない階段下の狭い台所で煮炊きした。

そんな母がある日、保育園から帰って来た私を唐突に抱きしめ、頬ずりをした。母はいったいどんな思いでいたのだろうか。

いつしか父の肩車に乗る事はなくなり、15歳で母とは死別した。その後、大学を卒業した頃には父と離反してしまい、絶縁状態が続いた。

長い月日を経て、一人暮らしの父の介護で再び同居を始めた頃は私もすでに中年の域に差しかかっていた。

一度は離反した父と息子の相剋の日々。それでも最後の五年間は和解の陽だまりの中で介護生活を送ることができた。ああすればばよかった、こうした方が良かったという思いは多いが自分の選択に後悔はなかった。

そして父を見送り、介護が終わり、自分の周りを見回せばそこには誰もいなかった。

郷里の同級生達はすでに子が成人し人生の収穫期を迎えている。それぞれに確かな人生を築いていた。自分には家族も仕事も友さえも無く、生きていく足場は何も無かった。

私は生き過ぎてしまった八日目の蝉なのか?子を宿した母蝉ならば生き抜く意味も喜びもあるだろう。子を産まない八日目の男蝉に生きる意味はあるのだろうか。何も無い。

父の夢。母の夢。家族に託された思いのそれぞれ。遠い記憶と現在の間に架けられた朧げな記憶の橋。今、私はあの風景に戻りたい。

2012年7月
ヤドカリ亭

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