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ペルシャ猫を誰も知らないのBaadのレビュー・感想・評価

ペルシャ猫を誰も知らない(2009年製作の映画)
3.8
物語は、監督のゴバディがクルド語の歌をスタジオで歌うシーンから始まる。カンヌの常連で、作品がアカデミー外国語映画賞のイランでの候補作になったこともある、押しも押されぬ実力派監督でさえ映画の撮影許可が取れないこの現状。(政治的には、ことイラン政府に対しては、隠喩のレベルでさえ過激な表現をする人ではない。前作を見たことがある人は、この措置がいかに理不尽であるか、理解できるハズ)。

スタジオで順番を待っている、自由を求めて出国予定だと言うインディー・ロックのデュオと意気投合したところからこの物語は始まる。

当然、撮影は許可状なしのゲリラ撮影となるので、思いがけない副産物として、一流のスタッフによる現在のテヘランの検閲なしの映像を見ることが出来、大変面白い。これだけを見るためにでも、劇場に足を運ぶ資料的価値がある。(タイトルがペルシャ猫なので、猫の映像も一応ありました。<ペルシャ>猫ではなく、イランにいる普通の猫で、大事に育てられているのか、演奏を聴いている間はカメラが入っていても動きが自然で可愛らしかった。)

描かれるイランのアンダーグラウンド・ミュージックの世界は大変な状況にあり、コンサートを開くのにも政府の許可が必要で、見つかれば逮捕投獄もあり、練習さえも警察への通報を恐れて人目をはばかる有様だという。

とはいえ、何年か前に見た同じ監督の『わが故郷の歌』や以前の他のイラン映画での描写からの情報と比較すると、ここ数年で随分と音楽に対する規制自体は緩んだように見える。やはり、インターネットの発達や、経済発展、若年人口の増加などの結果、規制自体もかなり実効性を失っているのだろう。その分、規制は、個々のアーティストへ嫌がらせ、という末期的な方向に向かっているようだ。映像を見る限り、何かが変わる直前の状態という感じがした。

今度変化へと大きく舵を切る時は、以前のような過激なやり方ではなく、誰もが満足できるような、寛容な方向へであってほしいと切に願う。

この映画で紹介される現代音楽の多くは、機材の調達に問題があるためだろうか、英米だったら80年代以前の音楽のような懐かしい雰囲気があって聞いていて大変心地よかった。が、その一方で、以前見たファティ・アキン監督の映画のトルコの現代音楽の音と比べると民族的な特異性は歌詞のレベルでかすかに判る程度なので、民族性は売りにならないように思える。

そのため、アーチストが出国でき、上手くプロモーションが行われたとしても、継続的に国外で生活できるだけの成功を維持するのはかなり難しいような気がした。映画もそうだが、イランの芸術のすぐれているところは、民族的な特異性よりむしろ普遍性や洗練性にあるので、国が音楽教育に力を入れていない、ということは、この分野の人材には明らかにマイナスに働いている。

ゴバディの資質からか、あるいはこの国の現状からか、最後のほうには民族音楽を取り入れた演奏家のクリップも聞けたのが楽しかった。

(若手芸術家の苦境(含む、映画監督) 2010/11/28記)
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