レインウォッチャー

ピアニストのレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

ピアニスト(2001年製作の映画)
4.5
M・ハネケ×I・ユペール=不可解の深い森。

さあやって参りました、愉しい変人偏屈のお時間ですよ。
捩れや歪みが細く引き絞られ過ぎると笑いにすら至る、という境地を堪能できる…と同時に、映画(に限らず)に向き合う背筋を正される奇作でもあった。寺?

超過干渉マザーと二人暮らしのエリカ(I・ユペール)は、名門校で何人もの生徒を抱える優秀で厳格なピアノ教師。演奏会が迫る折、彼女に熱烈な恋慕をぶつけてくるイケメン学生ワルター(B・マジメル)が現れる。
初めはワルターをつれなくあしらうエリカだったが、やがて彼女は自らの後ろ暗い欲望を告白する。それを知ったワルターとの関係は奇妙に拗れだして…

まずは、長年に渡る色々の蓄積により、奇形に発達してしまったと思しきエリカのエゴと嗜好、そしてそれらを源泉とするらしき素っ頓狂ムーブの博覧会に誰もが面喰うところだと思う。
生徒には時にボロカス・時にネチネチと般若の指導にあたる一方で、アダルトショップ(所謂ビデオBOXですね)に通ったり、バスルームでは剃刀であんなこと(血に弱い人ガチ注意)をしたり、そしてあまつさえ後半の七転八倒ぶり。そこにユペールちゃん様の美しき鉄面皮が被さるので、基本的に観てるあいだは「えぇ…」って言うための時間になる。

さて、そんなエリカの行動に何かしらの尤もらしい《理由》を見つけて論じること自体は可能だろう。母親との不健全で相互依存的な関係が~とか、音楽家として自身の才能の限界を認識していることへの反動が~とか。
しかし、当然であるけれど、そこに万人が納得するような《正解》はない。仮にハネケ監督やユペールちゃん様に訊いたとしても、きっと同じではないだろうか。エリカの行動は一貫しておらず、特にワルターとの関係が拗れた後半では彼女の性格は一度ぶっ壊れて変わったようにも思えるし、ラストシーンに至っては更に謎めいている。

果たしてエリカという人物に、託された《信念》とか行動の《意味》なんてあったのだろうか?
繰り返しになるけれど、断片を取り出して見れば何らかの説明はできる。一方で、全体を見れば過不足と不均衡だらけで、繋がりはないようなものと考えた方が自然にすら思える。

わたしは寧ろ、この安易な言語化をゆるさない不完全さこそが今作のリアルで、肝なんじゃあないか、と思った。そしてこの考えにはひとつヒントがある。エリカが異様な執着を見せる、シューベルトだ。

そこまでクラシック音楽に詳しくない人でも、その名前と代表曲のメロディは広く知られているであろう「教科書に載ってる人」、フランツ・シューベルト。
そんな大メジャー選手のシューベルトであるけれど、意外にも謎が多いことで知られている。彼は30代で早世しており、必ずしも順風満帆な音楽家人生ではなかった。その不運に揉まれた紆余曲折の末、作品番号が飛んでしまったり、未完らしき曲もいくつかあったり(まさに『未完成』と呼ばれる交響曲があるように)、遺された譜面上の指示の真意がわからなかったり…といったことが多々あるのだ。

当然、後世~現代の音楽家・演奏家たちは「シューベルト解釈」にそれぞれの熱を注ぐことになる。そもそもシューベルトに限らず、クラシック音楽は作曲家の意図を譜面やその人生から《解釈》して再現することを試みる世界だ。それ故に、同じ楽曲でも指揮者や演奏者によって幅ができて豊かな音楽体験を届けてくれるわけだけれど、ここで気付くべきは、やはり《正解》は見つかり得ないということであり、そもそも込められた意味や意図なんてあったかどうかもわからねー、ということである。

シューベルトは中でもその特徴的な一例として、この映画の中で置かれているように思える。つまり、シューベルトの楽曲に対する正解が永久に見つからないのと同じように、エリカの言動に対する正解も見つからない。
それでも、エリカはシューベルトに対する自身の《解釈》に固執し、他人にも同じレベルを要求した挙句、あんな事件すら起こしてしまう。そして映画に対しても、観る人は無意識に何かそこに意味を見つけようと《解釈》を試みるし、それが上手くいかないと人によっては意味わかんない(まきちゃん)と片付けたり、クソ映画だと罵ったりするのだ。

じゃあ、そんなことは全部無意味・無価値なんだよ、というニヒリズムが今作の主張なのか…といえば、わたしはそれも違うと思っている。なぜなら、演奏家が血を流して探求してきたシューベルトの音楽はやはり熱く美しいし、エリカはあまりにも人間的で、体温があり、愛おしさすら覚える人物としてそこに居るからだ。

所謂フツーの感覚では理解不能のはずの言動を繰り返し、ゲロ吐いたり泣き崩れたりしてるエリカを見ていて、なぜか涙が出そうになるのはなぜだろう?
異常と思えた彼女の願望、いや《幻想》が破れたとき、彼女がまるで城から追い出された小さなお姫様のように見えて、いやどうか誰か彼女を救ってやってほしいと祈らずにいられないのはなぜだろう?

きっとそこに意味や意図なんてなくとも、音楽は、人は、映画は「在って」、それだけ十分だからなんじゃあないだろうか。理解しようと歩を進めて、考えたり誰かと共有したりしようと藻掻くこと自体に光明があるのでは。

もちろん、これもまたわたしの手前勝手な《解釈》に過ぎない。『ピアニスト』はずっと奇天烈な映画であり続けるし、シューベルトのように永久に『未完成』だ。しかし今作は、だからこそ《解釈》をおそれない勇気をくれる映画でもあった。
だから、今作を左胸にぶっ刺して、わたしはこれからも映画を観ます。ごきげんよう。

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いまちょうど読みかけてる本(『心はこうして創られる』)に引きずられている感もある。
https://x.gd/Iiv5b

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ハネケ監督はむかしむかしに観た『ファニーゲーム』の印象が良くなくてずっと敬遠してたのだけれど、観なおしていく余地ありそう。