ニューランド

白い肌に狂う鞭のニューランドのレビュー・感想・評価

白い肌に狂う鞭(1963年製作の映画)
4.6
☑️『白い肌に狂う鞭』及び『モデル連続殺人!』▶️▶️
バーヴァの集中的に傑作が発表された年の、ホラーの代表的2ジャンルを極めた作品を観る。只、関心はジャンルの定義に照らして云々ではなく、たまたまそのジャンルのパーフェクト形を作ってるが、真っ向正直に作り込んでく中での、その姿勢·センス·正しさ·力量に、映画が映画を超えた完成·完全形がたまたま·或いは必然に著わされている事の奇跡だ。
『白い肌~』は、爛熟期の作品を観てこの作家のファンになる’90年代半ば以前に、ブラウン管を通じ、この作家の、初めて観た2作の1本でこんなものだろうとしか思ってなかった分、フランス語版で画質も今一つトロくも、そんなことどうでもいい位の充たされ方が、真っ向予想外で、もう1本の『~墓標』も見直さなくてはと即座に思った。ブラウン管では程々収まってる印象が、スクリーンでは、視界が深い底·奥まで届き、更に慎ましさ遵守と限界の喪失が同義語になり、映画の中の映画でありながら映画でなくなる。何かスマート照れ笑いと隠された本音の深い愉悦を、同時に感じる。
本作の少角度変·位置似サイズ変や、縦図光景を平面寄り図に直しパンしての人の佇まいらの目立たないカット切りは、陽の没しや曙小さく仄か·縄~鞭の執拗でもあるイメージ·城内の何気の深く厳かなシンメトリー·馬との距離と並存のあり方·暖炉火や棺館内らを跨ぐ石戸·短剣のありかと幻的動きらの押さえと何処かでリンクし、暗闇からとか·歩きくる毎に強いカラー照明の青赤らを潜り当たる、手と指·決意決心のアップ顔表情、或いは死んだ筈の男との幻視·亡霊的対峙、夫とその従妹の強い心情語りとその壁越し聞き込み、らは、より照明白く強く浮上がり 憑かれ語るヒロインや·暴かれ焼かれ朽ち一段落ちる骸骨遺体と劣化崩れ方·互いに様々な人間たちの己の主張を迷いなく或いは迷いままに語りつくすケレンもケレンではなくなる精神的裸の外形直結現れに繋がってゆく。門番の不思議なフットワークとそれが暗躍や怪奇にも見える瞬間持つあり方、執念の娘の復讐誓い凝り固まってる老使用女、男を巡る2人の女のよこしまを表に現せぬ清い前面の清冽美の交感、らは、財産·地位·名誉を奪われた憎しみ·恨みだけで(自らの罪の認めを上回る度合いが皮肉から超え)舞い戻った、城の領主長子の、端から·やがて望んでかのようにそのものとなる、亡霊的現れ·存在と支配力·その構造と、緊張感とニュアンスにおいて、極めて近く·深く潜ったところでしか線は引けない。運命の流れ·それの向きを変える内の意志、強さが双方から向かい差を喪う。
「弟ばかりがお気に入りの中、不祥事を起こし去り、今戻って謝る気はあるが、それ以上に私から全てを奪った、弟から(許嫁)、爵位、城、地所を取り戻す、事で参った。父上はそれを量る余力ももうないと仰るか」 「我々は(従兄妹同士から他にある夫婦を突き抜け)本当に愛し合ってる。(娘を殺された憎しみを抑えるより、運命が決めてくれる、と老女も言うが、)我々は(妻の存在を抜け)運命を逆にする」「誰が犯人なのか。貴女をも疑い、誰の事を信じられるか、限界だ。棺に納めた筈の兄の笑い声を確かに聞いた。兄は生きているのか?」「私の墓が暴かれ葬られようとしている。これ以上は無理。お前を私の世界に一緒に連れてゆく」 「彼は誰をも全員、本当に憎んでた。無理に愛し(操られ)てきたけど、心底憎んでた。これで彼を本当に葬り、自分を解放できる」「クルトを殺し、(義)父を殺したのも彼女か。彼もろとも葬ろうとしたが(自死となり)、亡霊の彼に操られ続けていた」
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『白い肌』のも含めた、’63~64のバーヴァは、改めて恐ろしいまでのラインナップで、特に『モデル』は、完璧な色彩·タイミング·造型、音楽や(キャラの)情念はむしろ過剰、であるをもって、適所に最適を超えたものが嵌まる、状態で表現という行為自体が恣意的には消失したような感触をおぼえる。こちらも素材自体は暗部を中心として今一つだが。
普通に考えれば、以下の要素は圧巻として、観た後も染み抜き纏いつく種類のものだが、その痕跡はどこかに消化されている。赤を中心とした、緑·青·紫·グレーの色彩の、小道具·衣装·照明の掛け合わさり、白い埃や霧の舞上がり·下部敷き詰め。屋外·館外観や林·車、荘厳を内から感じさせる室内の壁の襞·飾り絵画や堀込の天井·更にその上階収めの仰角·細い通路的な空間·マネキン(や枠)や家具やショー用意前後配置や古美術の詰め拡がり·窓枠の性格らの、捉えきれずも同時にモダーンでスマートな、美術·構図の造形、その固まらない流れ、それの一転闇つつみの中·光点滅しての造型瞬間呼び起こし·消え。フォロー左右や前後、軽く寄る·退くや回り込み·ズーム·パンのりきまない自然体とクールな軌跡(死体発見の急ズーム·インとアウトの切返しすら)。赤く円く刻み美しい存在感高熱具への手や顔の押し付け、直ぐに絶命せず必死の格闘中というより肢体の力ずくや衣類を破り取る延々いたぶり·引回し、浴槽への半裸体の沈め·槽底から·また浮かばせ方、死体の顔の赤い傷跡·焼け爛れれ盛上りや白眼剥き重なりのカットやピント他場所に映したりの出し方の呼吸、とりわけ処理した死体の消失といきなり眼前大アップ対面の(限定·杉下のフォーク的)鮮やか過ぎる瞬間ショック表現、死んだ筈の女の部屋奥からの進み来る不安威圧も。たいして混んだ因縁·トリックではないが、全力を振り絞る攻防、キャラたちの人間的な執着や弱みの濃さ·その重なり(女たちは性格的なもので衣装の好みや色がある程度決められ·統一している)、で発見された日記の入ったハンドバッグへの各目の目配せ離せなさと·中身入れ替えや本体の坪に代わってるトリック、電話での風邪気味と声色使っての引き寄せのトリックと古物商·広いアパート·マダムのショーの館での、殺人者·実は入れ替わってもいる殺人(や思わぬ遺体隠し)の多種コース。殺人(主犯)者に女の情感が身体から溢れ爛れくるような、懇願·恐怖·愛と陰謀の深さ·相手の全体の包み込みの、膨れ収まり。
それらは、最良の意味で子供騙しか、ありふれた慎ましさで、深く追求したり、我が身を捉え直させるものではない。語り口を反芻して楽しむ気もしない。ただ、人知を超えた何かに遭遇し、その中を抜けた感覚だけが残り、それも崇めるような大層なものでもない。アントニオーニ·フェリーニより俗っぽく、アルジェント·フルチのように描写が焼き付くでもなく、オートクチュールとFショーの館、夫殺しを揺すられた妻と愛人が、その子飼いのモデルの1人から、証拠の遺品めぐり他のモデル(やその愛人の発作死)次々殺してくサイクルに、美しいモデルへの猟奇殺人と思われた裏に、主犯2人の愛欲(それ以上の物慾)の渦巻きが、という内容の作品は、ミステリー色·殺人オンパレード·スマートモダニティ(亡霊·怪物色少)らで、基本私は言葉しか知らないジャッロなるジャンルのホラーらしい(あの『サスペリア』辺りが頂点か)が、あまりその映画史での位置付けにも、興味は、わかない。ただ、アートでもない何かが存在し抜いたとだけの記憶が残る。
高名な作品で(日本初公開時はどうだったのだろう、重臣さんらは論評したのか)、名前は知ってたが、観れたのは今世紀になってから、わりと最近レンタルビデオ屋でだ。その時は、抜群によくできた作品という事で、この評点に転換すると4.0を与えたが、劇場で正対するとまた違う。旧い媒体か、其れほど画質はよくはなく·少し暗部らに劣化も認められたが、しかし、それ以上のものを受け取った。
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