茶一郎

ウディ・アレンの重罪と軽罪の茶一郎のレビュー・感想・評価

4.3
 おおよそ人間ができる最悪の行為「重罪」と、条件さえ揃っていれば誰だってしてしまいそうな「軽罪」(非行)を交互に語り、結局、人間は例外なく罪深いのだから、どんな罪でも肯定して生きようと言ってしまう恐ろしく突き離した人生哲学。劇中何度も出てくる「目」というモチーフ、そして反復される「神はいつも我々を見ている」というセリフの通り、今作は神様、仏様、ウディ・アレン様の「目」を通して見た愚かな人間たちが織り成す実存主義的コメディである。
 ウディ・アレン監督が自ら「小説的映画」と呼ぶ作品群の中に、『罪と罰』をテーマにした作品の系譜があり、今作はその原点にして頂点とも言える一本。今後、『マッチポイント』、『夢と犯罪(カサンドラズ・ドリーム)』、そして『教授のおかしな妄想殺人』と反復されるウディ・アレン版『罪と罰』は、全て「この広大な宇宙における、人の命の無意味さ・無価値さ」と「自分で自分を罰しない限り、罪はない」ということを謳っている。現時点で、25年近く変わらないこの監督の一貫したこの思想は、本当に大したものだなァと思うが。
 そして最終的には、監督作全てに繋がるような「この辛い人生で生きていくには根拠のない『信仰』(『幻想』、『愛』)が必要かもね」という結論に辿り着く。「信仰」のみで生きている人物が現実を見る「目」を失っているのにも関わらず、幸せそうにダンスを踊っている瞬間を今作は映した。
 また、人の「目」ばかりを見て、治し、神の「目」ばかりを気にしている眼科医の「重罪男」は、自分の目では自分を見ることができず、結局、自分を見てくれる「目」を失った途端、その罪の意識を無くす。一方で、カメラのレンズという「目」を通して、自分と世界を見つめる映画監督の「軽罪男」は、自分の「目」で自分を見ることができる余り、罪の意識を感じて苦しんでいるという始末。この現実の苦しみを目の当たりにして、もう笑うことしかできない。
 最後に、セックスレスの男性が一生に一度は使いたいパンチライン:「女の中に入ったのは、自由の女神を観光した時以来だ」は、記録しておきたいと思う。
茶一郎

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