レインウォッチャー

おとなのけんかのレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

おとなのけんか(2011年製作の映画)
4.5
最高に最低で最高!!
もしも「人間が80分間で享受できる愉しみ」のランキングがあったなら、今作を観ることは相当な上位に食い込むんではないだろうか。

それに、もし一緒に暮らすならこの映画を笑える人、という条件に採用しても良いくらい、シンプル&ソリッドゆえにセンスの本質に近い作品だと思った。わたしとしては、《笑える映画》の代名詞的カードとして、いつも胸ポケットに入れておきたい気持ちだ。

息子同士の喧嘩についての話し合いをするため、二組の夫婦が卓を囲む。穏便かつ理知的に、「大人らしく」協議を進める彼らだったが、ちょっとした言葉尻や遠回しの牽制が蓄積し、場の空気は徐々に不穏さを増す…

という、ほぼアパートメントの一室のみを舞台にしたシチュエーション・ブラック・コメディだ。
登場人物も夫婦4人だけと言って良い。家主側のペネロピ&マイケル(J・フォスター&J・C・ライリー)夫妻と、訪問者側のアラン&ナンシー(C・ヴァルツ&K・ウィンスレット)夫妻。まさに何重かの意味で、今作に当事者の子供たちは《不在》なのだ。(※1)

子供同士の問題の仲裁として始まったはずの話し合いの中で、徐々に彼らの「大人の仮面」が剥がれ落ちる。
彼らは誰もが弁護士だったりライター兼活動家だったりと、いかにもリベラルでハイカルチャーな層と自覚している人たち。ゆえにガードも硬いのだけれど、ひとたびヒビが入ればあまりにも脆く、滑稽で、何より人間臭い。

さらに、その中で日々抱えていた不満や個人の価値観が露呈し出して、【家族vs家族】だった構図が時には【夫vs妻】とか、【1vs3】とか、場の勢力図が複雑に変化し続け、収拾がつかなくなっていく。ていうか結局は【1vs1vs1vs1】なんだよな、ってことを性格悪く教えてくれる。

水面下の小突き合い、じわじわ沸点を目指す顔の内側のマグマ、直接描かれない日々の暮らしを豊かかつ意地悪く想像させる言動の機微…
この一部屋の狭い空間に、京都が4倍濃縮で詰まっていると思って頂ければ良いだろう。そして、ついに噴出するエゴとプライドの掴み合い。

そんな彼らのバトルは、まるでラウンド制のように進む。アラン&ナンシー夫妻は「仕事があるから」と何度も帰ろうとするのだけれど、その度に誰かが何かに引っかかったり突っかかったりして部屋に戻ってくる。
この様は、まるでその度にゴングがカーン!と鳴って仕切り直されるようで(代わりに隣室のどこかで犬が吠え立てている)、わたしは毎回げらげら笑っていた。

誰もが各キャラそのものだと一目で思わせるスター俳優たちの演技力・顔力と、原作(戯曲とのこと)の強さは勿論のことながら、やはり映画としての巧さは随所で光っている。ポランスキーってなんでも撮れるんだなあ。

R・ポランスキーの作品としては珍しい類かもしれないけれど、それこそ『反撥』『ローズマリーの赤ちゃん』『テナント』とか、限定的な密室の中で醸成された歪んだ心理から生まれる重力を操ることについては昔から十八番だったともいえる。それがホラーにしろ、今作のようなコメディにしろ、動いているエンジンは同じなのかも。

今作においても、携帯電話、画集、花瓶…といった室内で重要な役割を果たすアイテムを無理なく意識に刷り込む手際とか、窓から差し込む光の変化で語る時間経過とか、その技を遺憾無く発揮。完璧なオチの見せ方まで含めて、こんなに下世話な話なのに《エレガント》!とすら思ってしまう。拍手不可避だ。


-----

今作をフォトショに取り込んで《まじめ》のフィルターを5重くらいにかけると、『対峙』になると思う。

-----

※1:この《不在》は、社会全体で起こっていることの縮図だとも取れるだろう。弁護士アランが抱える薬事訴訟も、ライターのペネロピが声高に主張するアフリカ問題も、すべては机上の安全圏で話されていることが皮肉たっぷりに強調されている。