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愛撫(ラムール)のニューランドのレビュー・感想・評価

愛撫(ラムール)(1933年製作の映画)
3.8
☑️『愛撫』及び『人生のお荷物』▶️▶️
流麗⋅巧みという賞賛も当たらない、形容の出来ない、映画そのもの⋅その特有の呼吸が形を越えて息づいている。確実だから、高度だから、鮮やかだから、というのではない。固定したイメージが定まらない、幻でもなく、生と情が揺らぎ続けて、美を実現し続けてる作。かなり多くの画面は人やその顔を中心に置かず、空きや偏りがバランスに反するように⋅しかし自然な現れとして置かれ、受け継がれ独自に編まれ拡がり発展してゆく。はっきりあからさまに強いショットの絡み⋅構築の核を見せずに、捩られると同時に伸びてゆく。その可能性は限りなく柔らかい。しかし絡まずも、細かい切返しやサイズ⋅角度を少し変えての叩き込みの部分も、流れのうちにある。縦に(主観で)寄る⋅退くのを始めカメラ移動⋅パンも鋭いのも⋅柔らかいのもあるが、表現意欲として突出する事はない。楷書でなく、草書とも言えず、力まない行書そのもののようなタッチ。繊細⋅微妙も消え去る本質の、都度の角度⋅前との対応、90°変やどんでんは細かくしっかりブレずになされても、明確な筆致の確認は消え、後からつながりとバランスが呼び起こされるだけ。驚くべきは、それらの溶け込んで浮かび上がらないスタイルは、二つのものを呼び込んでる事である。ひとつは女優を中心とした映画とは思えない瞬時瞬時で動き⋅乱れ⋅やつれる表情⋅顔の造作⋅感情の止めどない振れ幅のリアルと儚さ⋅脆うさである(とりわけ岡田嘉子のそれは、劇映画の範疇を越えている)。もうひとつは、メイン描写と併行する、そのシーン空間の外の広い自然と建造物の世界の無情で厳しい表情(人間を越えたレベルの)のごく短カットの挿入、その室内で人物たちが触れ扱う小物や手先行動の独立した押さえ(群)の挟み、そしてドラマの動きと直接的には無関係の⋅その共有空間(室内)の天井や障子等の活きてるような(パン追い)⋅ドラマと同等の捉えが、メイン描写に大胆⋅定石破りに割り込んでくる事である。が、全体の併行一体流れるは、より近しい総体の実感となる事である。
あくまで何も残らず表面的には、過ぎて同質ですべて違う世界⋅日常の表情の変移の可能性⋅実際だけを示すだけである。役立たない程に、こちらの内なる弱い本質の実態とそれでも生き残ってくサガと絆をふるい出してもくる。
まさに若き五所は、軽く無理な力が要らず、天才だけを濁り⋅気負いなく漂わせてく。同時に、映画という俗な媒体では、それは深くは刻みを残してゆかぬ。この後冴えを、別な軽くも踏みしめてゆくものに、部分転化してゆく、映画作家としての定着の道があるのだろう。
終盤が駆け足というか呆気なく家族各々と真のパートナーとの未来を描いて終わるが、地方の地元民に根ざし⋅使用人とも一体的な個人病院主が、医療ミスのマスコミ拡げ⋅噂のひとり歩きで一転窮地に。娘との結婚を条件に予てより支援してしきた有力者とも離れ、それらを乗り越えられる筈の、頼りの資格を取る為に大学へ出してる、息子の方も、娘(姉)が訪ねて行って、学友⋅慕い支えてる若い女も邪険にする程、学業から逸脱⋅堕落していたを知る。生まれてこのかた、父の無理解⋅一方的押し付けの苦痛の結果と悪びれもせずも、内は疲弊してる弟。伝え聞いて、因果関係はともかく倒れる父。呼び戻す手立てとあしらいに戻った弟は、父の姿と、力を盾⋅から抜けて、これよりは対等に聞き入れる姿勢の無理ない悔いと改めを聞いて、息子も心をあらためる。2人は心身ともに立ち直ってゆき、手を携え都市の病院へ赴任してゆき、娘も本来の恋人の教師の妻になっている。
嘗てソクーロフが、映画が西洋でなく東洋で生まれていたなら、全く違うフォルム、独自の定着を示してた筈と言って、日本でそれに従うビデオ作品を連打していたが、その更に純粋な萌芽⋅現れが初期五所作品にある気がする。勿論溝口や成瀬⋅小津とも繋がるが、より日本への親しみがある気がする。今週どうにも時間が仕事とバッティングして観れなかったが代表作『クラッシュ⋅バイ⋅ナイト』のラングや、同じく『浜辺の女』らのルノワールの、太く強く幅を備えた直線的な骨格の構築⋅保持とは、明らかに違う他の魅力。
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『人生の~』はまた違う魅力で、東洋的⋅西洋的な差異、映画的造型力を無化している。初老の夫が繰り出す、夜の歓楽街の描写の、各場⋅それらの位置角度、それらの連なりと相互の呼応のパートはあるが、家族⋅室内⋅日本間シーンのメインは、デクパージュは切返しにしても⋅縦の構図⋅寄り入れと戻し⋅90°変は丹念も、描写⋅批評性や同化の面よりも、描写対象の動き⋅関係と不可分⋅分離不可の感覚となってて、表現としての映画が消失し、純化された現実⋅世界だけが、手に取れるか⋅中に入り透明人間としてそのまま入れる、日常宇宙として、眼前にあり続ける。その映画手応えの無化⋅昇華には呆気にとられる、一種奇跡だ。
とりわけ、3人の娘を、地所の1部を売り払ってまで片付けたばかりの、老夫婦が水入らず旅を考えるが、年の離れた息子がいるのが浮かび上がり、60前の会社部長の出来る事はなく、早めに実社会へという夫へ、無意識にそれがはたらいているのか、日頃息子とだけは距離⋅冷たさのある事も含め、妻は根本の愛がなしと留まるを知らず責めだし、遂に息子を連れ次女のうちへ家出、老年別居に至るディテールの、ふとした安心感に宿る不安、その大元の夫婦間の不信へ突き当たる、引っ込まず噛みつきかたが本格化してくる妻と、自分を改めるを露考えない強気の夫の、表面上の出入りが見もの、かつ透明な力もある。これに対する、間違えてフラッと元のうちへ下校から行ってしまい、父と鎧を外したスットンキョウ⋅おずおずも本音のやり取り生まれくる息子の行動も、見事な捌き⋅リアリティがある。
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