Jeffrey

哀戀花火のJeffreyのレビュー・感想・評価

哀戀花火(1993年製作の映画)
4.0
「哀戀花火」

〜最初に一言、黄河両岸にかかる花火のシーンは中国映画史上最高の瞬間であり、点火するタイミング、男女の立ち位置、船の上の空間。このたった数秒間のワンシーンだけでこの映画の傑作具合がわかる。正にフー・ピン最高芸術作品であり、人の魂に入り込む芸術、揺さぶる、生命に活力を与える偉大な芸術を創った美の花が炸裂する傑作だ。これがVHSしかないとは残念極まる〜

冒頭、清朝末期の中国西北部。黄河のほとりに爆竹の生産地として有名な街がある。三百年の老舗、男装した女主人。吉祥画を書く男との恋。封健的社会と文化。屋敷、工場、体罰、支配人、悪魔払いの踊り。今、河原で花火合戦が始まる時、喚声が街中に鳴り響く…本作は1993年に中国、香港合作の映画で、中国第五世代のフー・ピン監督の第4作目に当たり、ゆうばり国際冒険・ファンタスティック映画祭92年ヤンググランプリとベルリン国際映画祭青年論壇賞を受賞した作品で、この度中国映画特集をYouTubeで行うべく、VHSを購入して初鑑賞したが素晴らしい。本作もソフト化されておらず、非常に残念である。その他にもハワイ国際映画祭、セバスチャン映画祭などでも賞を総なめにしている。原題は、赤と緑の火を放つ爆竹花火の名称で、中国の紅男緑女(綺麗に着飾った男女の意)という言葉と符号し、幸福を祈る意味を持つらしい。ともかく映像が美しく、短くも美しい愛のスペクタクル作品としては傑作である。黄河のほとりは花火の街と言わんばかりの花火映画だ。その美しい映像はなんといっても、張芸謀監督の傑作「菊豆」のヤン・ルンが撮影を担当し、伝奇物語を得意とする中国の現代作家フォン・チーツァイの短編小説"炮打雙橙"を、ター・インが脚色した映画である。しかも音楽はチャオ・チーピンが担当している(様々な中国映画の傑作に関わってきた人)。どうやら主演の女優は少数民族のナシ族の血を引く新人ニン・チンである。

この監督の面白さのーつに大衆的な語り口を使って独特な視角から映画を面白く見せているのが良い。他の世代の監督とは違って、ストーリーの展開に重点を置いていて、物語を大事にすることを重視している。今思えば、彼は三つの民族の混血児であり、母は漢民族、父型の祖父は豪古族、祖母は満族で、二つの遊牧民族の血が流れている。歴史上遊牧民族が生活していた西北地域に何かしら吸引力を持っているのだろう。だからどれも舞台は西北である。そもそもこの監督は、電影学院監督学部の受験を受けて合格したか、合格通知書は手違いで、不合格と言われもう一度農村に戻って、その挫折から映画監督になろうと誓った人物であるためものすごく強いのだ。この映画は男女の恋愛ものだが、花火と言うものがテーマの一つにもある。中国の花火生産の歴史と言うのは長いもので、大きく分けて、三種類のものが造られている。一つは礼花といって、大体、公の祝賀式典などの大型イベントで使われるもの。続いて、煙花と言う民間でのお祭りに使うもの。最後に、爆竹と呼ばれるものだ。それに合わせて、中国では何でも作る大型花火メーカーから、爆竹しか作れない小さい工場まで大小多様ある。中国各地にはほとんど爆竹工場があり、細かく分けると、花火の種類は千以上もある。さてここから物語を説明したいと思う。



さて、物語は清朝末期の中国西北部、黄河のほとりに爆竹の産地として有名な街があった。春技(チュンチー)はその地方の爆竹の生産と販売を三百年にわたって仕切ってきた老舗、蔡家の若き男装の女主人。十九歳で店とすべての財産を相続した彼女は、男の跡継ぎのなかった蔡家で、幼い頃から男として育てられ大胆那となる事を運命づけられていた。ある冬、年の瀬も押し迫った頃、偶然その街に立ち寄った旅の絵師、牛宝(ニウパオ)は蔡家に雇われ、住み込みで正月用の吉祥画を描くために街から黄河を隔てた対岸にある屋敷へとやってきた。掟に縛られ、暗く閉鎖された屋敷の中で、自由奔放に振る舞い絵筆を奮う牛宝の存在は極めて異色だった。やがて、春技はそんな牛宝に好奇心を持ち、彼の活力に満ちた男らしさに惹かれるようになる。また、牛宝も春技の男装の奥に隠された女の魅力の虜になろうとしていた。

蔡家の執事のチャオと、花火、爆竹工場の責任者であるマン番頭は、当主は決して他家に嫁入りしてはならないと言う先代の遺言を守ろうと、春技と牛宝が親密になることを異常なほどに警戒していた。春技と牛宝はお互いに好意を持っている事は知っていたが、大胆那としての立場、掟と責任を意識するあまり春技は素直になれなかった。そのジレンマに耐え兼ねた牛宝は蔡家に爆竹の束を投げ込んで捕らえられた。厳しい体罰を受けて重症を負った彼は街を去った。だが、彼の心には蔡家の婿になるなら爆竹を学べと言う、彼を介護してくれた蔡家のシュイ支配人の言葉が深く刻まれていた。春。蔡家と爆竹の街は以前の静けさを取り戻した。ある日、蔡家に再び爆竹が鳴り響いた。牛宝だ。彼は遠くの街で爆竹の修行を積んで戻ってきたのだ。

屋敷の門に駆けつけた春技の前で牛宝は全身に真っ赤な爆竹を巻き、無言で激しい修行の証である爆竹の妙技を見せて去っていった。春技にとって、それ以上に心揺さぶられる求愛はなかった。春技はいてもたってもいられず牛宝の宿へ出向き、二人はその夜初めて熱く激しく結ばれた。次の日、蔡家は騒然となった。春技が男装を止め女の格好で現れたのだ。以来、街では悪い噂が広まった。やがて、牛宝は春技をたぶらかす悪魔の使いだとして住民にリンチをかけられて屋敷では春技は監禁されて三日三晩悪魔払いの踊りが続いた。牛宝は春技を街から連れ出そうとしたが、彼女にはその勇気はなかった。その頃、長老たちは春技の婿を決めるための爆竹合戦を計画していた。各地からたくさんの候補者が集まった。その中には執事に推薦されたマン番頭と、支配人の推薦による牛宝も入っていた。黄河の河原で決戦は始まった。戦いはほぼマン番頭と牛宝の一騎打ちだった。

二人の命をかけた危険な爆竹合戦に観衆がわき、拍手と歓声が町中に鳴り響いた。そして、一瞬、一際激しい爆音とともに、黄河に悲鳴がこだました…とがっつり説明するとこんな感じで、とにかく華やかなエンターテイメントとして作られた質の良い作品であった。今回初鑑賞したが、正直想像とは少しばかり違っていたが、その独特の感性はよかった。彼もチャン・カイコー同様に下放(五年間)され、農村から北京に戻って二十歳で映画の現場に入った人物である。学院派と言われる監督たちが学生生活を始めた時期だった頃に、記録映画、舞台映画、そして本格的劇映画と豊富な現場経験を積んだ後、一九八五年に西安映画製作所に所属し、当時西安映画製作所は張芸謀が撮影カメラマン兼主演として携わった映画「古井戸」の呉天明監督が所長しており、新人監督に製作の場を積極的に提供していたのは有名な話だ。


いゃ〜、それにしても前作の剣戟アクション映画の傑作として、中国版七人の侍と言われた「双旗鎮刀客」とはうって変わったシチュエーション映画になっている。今思えば彼の処女作「女スパイ、川島芳子」では、満州国建国の周辺を舞台に川島と言う悲劇のヒロインが主人公のオリジナルなドラマを展開していた。そして本作はとある街を舞台に、男女の恋愛をエンターテイメントに描ききっている。その広場で爆竹の束を振り回しながら爆竹の中を踊る曲芸のようなシーンはインパクトがあり、夜に中国の伝統楽器の音が流れる中、頭に光るものをのせて、数十人の人々が衣装を着て整列して踊る一種の悪魔払いの儀式のようなシーンは美しく見える。あと黄河での小舟を漕ぐシーンや花火大会ならぬ花火合戦が炸裂する場面は幻想的で美しいし、迫力満点だ。

正直、この作品を評価するにあたってこれらの作品を見ておくと非常に評価がしやすくなる。何が言いたいかと言うと、基本的に第五世代の作品によってインスパイアされている本作は、中国の典型的風景として描かれたラブストーリーであるがために、カイコーの「人生は琴の弦のように」「黄色い大地」で映る大自然(砂漠だったり滝だったり黄河であるや張芸謀の「菊豆」「紅いコーリャン」「紅夢」の様な色彩感覚が写し出されているからだ。要するにこの作品はすべて良い所取りしている豪華な映画であると言う事だ。そもそも私がここ最近中国映画にはまりだしたきっかけの一つに、シェ・チンの「芙蓉鎮」を観て、凄まじい中国映画を見たと腰を抜かしたのがきっかけである。そこから彼のフィルモグラフィーを調べて、できるだけ国内で発売されている廃盤のVHSをなんとかかき集めて(数十万使っている)初鑑賞したらどれもこれもが素晴らしく、その勢いで中国映画の知られざる監督の作品を集中的に調べた。そうするとほとんどがソフト化されておらず、ビデオのまま葬られているのだ。この作品もそうであり、先程言った「人生は琴の弦のように」「紅夢」もその一つである。

そもそもこの作品の物語の内容を読んだ瞬間に面白いと思った。だって、跡継ぎがいないために、爆竹の老舗を経営するために女にもかかわらず男として生きなくてはならず、そこに現れた男に力ずくで本来あるべき姿に捻じ曲げられて行き、それが恋愛へと発展するのである。そしてその恋愛を邪魔するかのように、中国社会の因習と封健制が阻み込む。それも小さな町で起こる花火合戦とともにだ。なんて大胆な内容なんだろうと。そもそも爆竹と言えば中国こそ本場であろう。旧正月では必ず爆竹による豪華な祝いのムードが連日ニュースでも流れてくるのを見たことがあるだろう。そうしたシチュエーションとエモーションが原動力となっている本作は傑作と言って間違いない。これは第五世代とフィールドを分け、自分なりの作品を作り出したフー・ピンの渾身の力作だろう。それにしても主演の女優がエキセントリックで美しい。なんとも吸い込まれるような眼差しをしている。それにしても中国文化と言うのは映画を通してみるとすごいものを感じる(言葉では表せないような)。お正月を飾るめでたい絵柄の吉祥画も素晴らしく華麗である。

このフー・ピンのみずみずしい感触がたまらないのである。やはりどこの国もそうなのかもしれないが、この伝統的秩序に反する二人の愛情は誰もが許さなかったように、元からある文化破壊等を許さないのだろう。この作品は未亡人と言う身分から起こってしまう悲劇を描いていて、伝統のある大家族としてフォーカスされているため、春技の独断で男装から元の女性に戻る事は許されなかった。本作では人間性と伝統的文化との対立を強調しつつ、封健的伝統文化の中で生きる女性がどのような立ち位置にいるのか、逆に人間的な活力に満ち溢れている男に対して暴力と言う手段を使ってしまう街の人物たちを描いている。グロテスクなシーンで、その牛宝が縛られ、爆竹で体を吹き飛ばされたりする場面はあまりにもひどい。しかしながらどんなに痛め付けられても二人の愛情は生命力の衝突であるかのごとく揺るがない。そういった描写が非常に良い。どうやら原作は最後に二人とも結婚するようだが、映画では爆竹で牛宝の性器が吹き飛ばされ静かに街を去ったと言う結末になっている。

原題の"炮打双灯"とは中国の爆竹花火の名称の一つで、昔は結婚式の時、炮打双灯を打ち上げたらしい。空に飛んでから灯のような赤と緑の花火を打ち出し、その赤と緑の灯は中国の紅男緑女(きれいに着飾った男女の意味)と言う言葉に符合し、幸福を祈る意味を持っているとの事。原作の題名は映画の内容にもふさわしいと思って監督がそのまま使ったそうで、中国ではそのタイトルを見た瞬間にすぐにラブストーリーだとわかる人が多く入るみたいだ。それにしても、あの屋敷が建てられているロケ地は中国四大古代文明の発祥地として知られている山西省の丁村で、明清時代の民泊が四十七軒もうそのまま綺麗に残されている村として観光客がよく訪れるスポットになっている。確か中国の一級文化財として認められていたような気がする。この作品は見て損ないと思う。非常に美しかった。
Jeffrey

Jeffrey