ニューランド

愛情の都のニューランドのレビュー・感想・評価

愛情の都(1958年製作の映画)
3.6
 再見する気は無かったが、ニュープリントに惹かれる。美術も演出も脚本も俳優連も説得力増し、映画のファンタジーの厚みがより押し包み、更に好きになり、感心した。作り物の絵(切り絵)の堂々使用の、タイトルバックから窓から見える光景。シックな日本的建込みのベースに、重い緑や朱の、壁や家具塗り込みや照明による侵食、またはその色らの衣装が落ち着きを拒んで跳梁や纏わりをして、落ち着かないものが伝わってくる。やはり戻って、厚みとファンタジーの映画世界。前半、異サイズも粘らずスッキリ切返しや90°変をして、人を内へ向き合わさせて、寄る移動やフォローが時折で平明·静謐自然なタッチ。それからいつしか(役が主題歌唄い、衝撃音被る頃からか)、垂直にカメラ一気上昇して窮屈で強い俯瞰め図を始め、移動とその多様性が増し、アングルも仰ぎや高さから見下ろす角度が加わってくる。しかし混乱には至らず、人と人·人と環境の間の歪みが生れてゆく。
 カット組も本来、主役のアップ·切返しらがぴったりゆったり嵌められ、脇はカメラが寄って行ったり·窺い見る単独アップに留まり、分を超えないが、それぞれがポジションに嵌り、それはハリウッド王道の力の持ち方に劣らない。しかし、やがて清純そのもののヒロインは急な流れに自分を追い込み·割り込んだ力に汚され、安定据え方を外れ、メイクや目線も険が立ってきて、世や女への遊び·弄び中心から真面目に生き直してきた相手と、釣り合う余地を完全に失う。司は30近くなって、或いは30を廻って演技開眼したと言われたりしてるが、この落差表現は既にしてそこに達っしてるし、映画界が絶頂期に届こうとしてる時、それを受けて背負い切る看板スターで有り得てる。前にも思ったが、草笛·宝田·司の3人がほぼ同年齢というのも凄いが(小泉だけはかなり上だが、草笛の方が年長の貫禄あり、汎ゆるカップルが一方のひたむきな想いに収まるルールに従う語り口の妙の鮮やかさ内の括りにも見える)。やがて共に普通ならやり直せ無い社会的な傷を同等に奇しくも負った中心2人の再寄添いの映画ならではの力技に比べれば、後のニ組は慎ましく自然にリアルで、二人のリアルではない隙間を埋めてる感もする。
 何軒も店持つマスターとの仲で、神田に一軒を任されたキャバレーのマダムの所に、田舎で育てて貰ってた叔父に不本意な結婚を押し付けられた、亡き夫の妹が逃げてくる。そこで働き始めた彼女に、実の母は父の遊び相手で故人という負い目から、仕事より次々女へ入り込むプレイボーイ化した、社長子息が惚れ込み、まともに初めて入れあげる。関西の財界大物令嬢との結婚が予定され、義妹に対し、子息の実家や育ての乳母も反対、愛人の1人も子を成して捨てられたと暴露。失望·失踪の義妹を他店紹介のマスターの毒牙が。捜し当てた子息に、女はこうなったら出直せない·遅かったと、擦れて拗ねきった目。が、子息はその後捨てた以前の女に撃たれ、軽傷も、互いに社会に対しての傷持つ身として、場を互いにズラせる事で対等に向き合える流れへ。乳母の娘の隠れた想い、マダムを想う子息お目付け役の先輩らも、結ばるべき相手に収まりゆく。
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