くもすけ

いまを生きるのくもすけのネタバレレビュー・内容・結末

いまを生きる(1989年製作の映画)
-

このレビューはネタバレを含みます

てっきり小説を映画化する際ジェンダーや人種などを排除してソフトな反抗映画になったのかとと思ったが、オリジナルシナリオ。シナリオ書いたトムシュルマンは自身の経験をもとにしたそうな。草稿ではキーティング先生は病気で瀕死状態だったが、監督の判断で関心がそれるとして取り除かれた。またディズニー(タッチストーンに製作協力)の提言は、「スイングするサルタン」という題で詩よりもパッションに、子供よりキーティング先生にもっとフォーカスさせろということだったがこれもオミットされている。アカデミー賞脚本賞とっているが、ポーリン・ケイル、ロジャーイバート両者とも不評で、特に後者は50年代なのにビートがでてないのにご不満の様子。これは全くそのとおり。また最も忠実な生徒チャーリー(「ヌワンダ」)がアフリカンやインディアンを屈託なく霊験としているあたりにも時代を感じる。

上の2つの案がオミットされ、青春映画の風格をなぞったのが座りの悪いせいかと思う。学生たちは基本的に従順だ。キーティングの焚付けにまんまとはまって、教師がもったいぶる秘密のクラブを復活させ、愛の詩を一つ覚えに特攻し、シェイクスピア劇にのめりこみ、そして皆キーティングとともに学校から姿を消す。ハーメルンの笛吹みたいだが、キーティングの「あとは知らないよ」みたいなほくそ笑んだしぐさがその悪辣さを食えないものにしているようにもみえる。これは私の意地が悪いせいか。
ディズニーの提言をうけキーティングを掘り下げたらどうだったろう。同時代の野良詩人たちを横目に学生にドロップアウトを煽り、自身が置かれた矛盾と混乱を含めて描いていたら。

映画を見ていると、学校の外にほとんど出ないので時代のことはわからない。できるだけ学校の権威以上のものを取り上げないようにコントロールされているせいで、子どもたちの焦燥感が伝わってくるが、一方ですごく狭い世界にもみえ、個別の動機がただの反抗に回収されていくのがやるせない。同じことだが、示し合わせたような「仲間」(とそ裏切り)の表象もつらい。チャーリーがケツ叩かれたあとに勢い大学を出ていくとか、ニールは自殺せずにそのまま妖精になってTウィリアムズにのめりこむとか、一度でいいから外にでて「仲間」から離れたらいい。キーティングにはそのへんご教授いただきたい。