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パッションのTnTのネタバレレビュー・内容・結末

パッション(1982年製作の映画)
4.3

このレビューはネタバレを含みます

 冒頭の青空を追う作品だったのかもしれない。それは二度と訪れないが、それとは別の雪の残る白い世界にて、今作は幕切れする。

 2回目の鑑賞だったので人物とか内容とかわかったけど、後期のゴダールの物語の無さは初見殺しすぎる。人物を紹介したり、彼らの感情に寄り添ったり、そういった演出を徹底して排している。つまり、”物語る”という行為を放棄しているのだ。更には、冒頭は空の映像によって辛うじて繋ぎとめられているだけで、各シーンはぶっきらぼうに紡がれている。そこにいる人物は愚か、一体どんな場所かもわからない。これは意図的に物語を掴もうとする観客を撹乱させる意図があるとみた。特に、音もしばらくずっと画面と同期しないというのが多い。

「とにかく礫(つぶて)のように映像が飛んでくる、礫のように音が飛んでくる、それにただ無媒介的に打たれるという体験がありうるのであって、それをしかも映画という媒体を通して反復してみせるというのがゴダールの狙いなんですね」『浅田彰著「映画の世紀末」ゴダールを語る、松浦寿輝との対話』より
 上記引用した通りの、名付けられ従属する前の映像と音が襲いかかる、ブレヒトの異化効果のように。それは高尚な”芸術然”としているというよりかはむしろ、初期B級映画への愛を隠さなかったゴダールのB級的なジャンプスケアと言えるのではないだろうか。この映画はそうした「はっ」とさせることだけで成り立っている。

 「はっ」の数々。車のけたたましさはいつものことだが、後ろに映り込んだ意図しない車の行き来にもしっかり音が乗っけられている。車という自然界ではない異質の音の違和感と嫌悪感。

 車を好む男とそれを拒む女の構図。一貫したゴダールの視点は、女性は動物的存在で、本能のまま動いているという考えだ。女性たちがブリッジの練習やバレエのダンスを所構わず行うのに対し、男はそれに応答できない。逆に男は女を応答させることもできない。不意に挟まれる後背位で交わる男と女の衝撃もつかの間、男はずっと「お前の言葉で言ってみろ!」と謎の指示をしている。その指示に頭を振って拒んでいるようにも見えるその構図のグロテスクさよ。そんな男たちは車を好み、「情熱的な愛をしてみたかった!」という工場長は妻を車で追突まがいに追い回す。応答できず動かない男にとって、車ほど魅力的なものがあるだろうか。クローネンバーグがカークラッシュに見た性的倒錯を、いやむしろ倒錯ではなく真っ当な人間の行く末だと言わんばかりに。

 逆に、女性は身体性以外をやや否定されて描かれている。イザベルは吃りがあり、話すことに難がある(その代わり音色としてのハーモニカが雄弁に鳴る)。「ゴダールのマリア」でも存在感を放ったミリアム・ルーセルが演じるのは、聾唖の女。ゴダールはこの美女に、如何なる口も聞いてほしくなかったのだろう。美そのものに当人の他言は不要、美を破壊しかねないわけだから。また応答もできない存在として、もっぱら身体性だけを間借りさせられており、不憫に思えてくる(不憫さも美であるという意図がされてそうなのがまた鼻につく)。

 ただ、今作におけるヌードの目に焼きつくような美しさはなんだろうか。マネの「裸のマハ」が何の前触れもなくただカットとして提示された時の困惑。まさに「裸のマハ」が当時持ったはずのファーストコンタクトの度肝を抜く衝撃を、しっかり原義に沿って踏襲している。

 絵画を映像に翻訳する。一向に完成しないのは、”単に映像だからとしか言えない”、と言いたいのかなと。絵が静止画であるのに対し、映像に”瞬間”を描き続けるのは不可能なわけで、カメラは動くし人も動く。逆に、この動き続けることでしか映画は生きられないので、絵画の翻訳を完成させられないことこそ映画の描けることであるのだろう。

 狭間で。今作のもう一つのテーマである、女性二人の間を揺れる監督の存在がある。イザベルの吃りを、ハンナの映像を巻き戻したり早回したりして映像的に吃らせ、二人を近づけるなど、監督ジェルジーの執着は凄まじい(映画監督は二人を近づけられるという自負すら感じる)。この混乱はかなり 「8 1/2」的で、途中のスタッフとのやりとりはオマージュかと思われるほどだ。映画はこれと断定できない、流れ続けることであるというのが提示されているのだと思う。

P.S.
 そのほかいろいろ編集単位で深掘りできる平倉圭の「ゴダール的方法」が参考になります。

 そういえば労働と愛についての話だったけど、これだけあんま整理できなかった。
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