オレンジマン

恐怖分子のオレンジマンのネタバレレビュー・内容・結末

恐怖分子(1986年製作の映画)
3.9

このレビューはネタバレを含みます

作品全体から醸し出される不安はタイトルにふさわしいものだし、下手なホラーより全然びくびくしている自分に気付く。少ないセリフの代わりにこの作品は緊張感のある音に溢れている。冒頭のサイレンや犬の鳴き声、そして水が滴り落ちる音。この水の音が作り出す緊張感がこの作品の音空間を統一している。主人公が手を洗い、男がシャワーを浴び、女は雨の中を歩き、警部は風呂に入り、主人公の血はその風呂に滴り落ちる。こういった素晴らしい音のイメージによって恐怖は駆り立てられるが、その一方でやかんが沸騰する音など少しやりすぎと思えるものもあった。

この映画のテーマはもちろん都市における疎外とか人間関係の不信とかもあると思うが、その核心は現実/非現実の区別ということだと思う。この作品の登場人物の多くは非現実に囚われている。カメラマンの男はファインダーを通した非現実、妻は小説を通した非現実。そして妻の浮気相手は、妻の書いた小説を通した非現実。医者の男も最後の最後に妻の文学賞作品を読み非現実へと迷い込む。そしてその非現実はどれも間違っている。この映画ではどこまでが現実でどこからが非現実かまったくわからない構成になっている。本当にハーフの女はいるのか、本当に怪電話はかかってきているのか、もっと言うとほんとに医者の男など存在するのか……最後に2パターンのラストが用意されているのだから、必ずどこかには文学賞の作品の内部が入り込んでいるはずで、人によって色々な見方ができると思います。この映画で唯一繰り返し述べられていたのは「小説は小説、現実は現実よ」であり、このことと向き合うことを監督は要求しているのだと思った。

上のこととも関係して、観客は最後突然謎を突きつけられたような気分になる。ん?夢オチ?どっちが真実?と。ここで「分子」という言葉に注目してみると、分子とは二つ以上の原子から構成される物質のことであり、恐怖分子の意味の1つは人間が2人以上存在する時そこに恐怖が生まれるということだと思う。しかし、この作品で触れておかなければならないのは“子供”の存在だと思う。子供は母親と父親、必ず2人以上(2人)存在しなければならず、その意味で子供を分子と見ることもできる。医者の夫と小説家の妻は、子供を産むことでそれぞれ独立して原子として存在する自分たちを強引に分子へと結合しようとしたが、失敗し、お互いの気持ちは離れてしまう。しかしこの子供は恐怖分子ではない。幸せな生活を作り出すはずだった幸せ分子なのである。では、恐怖分子たる子供とは誰か。最後のシーケンスは小説家の妻が、医者の夫の自殺を察して(この辺は現実なのかどうか微妙だが)気持ち悪くなって吐くという意味に思えるが、実は違うような気がする。この嘔吐を“つわり”と考えることはできないだろうか。当然この場合の妊娠は小説家と浮気相手の子供であるが、元夫である医者が死んだと同時につわりが起きたことを考えると、それは(ある意味で)元夫の生まれかわりなのではないかという恐怖が妻と浮気相手にはよぎるに違いない。そこで初めて、この夫は妻に復讐を果たすのであり、自らが赤ん坊として恐怖分子になるのではないだろうか。そんなラストなのではないかなと僕は観ました。
(関係ないと思うが)ゲーテの「親和力」という小説で、婚約している男女の間に生まれた子がそれぞれの浮気相手に酷似しているという話があるが、この恐怖分子からはどことなくそれに近い恐怖を感じた。妻と浮気相手の間に生まれる子供は医者の元夫に酷似しているのではないだろうか。子供は恐怖分子なのか幸せ分子なのか。何故ラストの復讐シーンは子供の姿から始まるのか。この映画では子供が重要な意味を持っているのだと思いました。

長々と考察を書きましたが、詰まるところこの作品は色々な観方ができて、それをあーだこーだと話し合うのも楽しい作品だと思います。それは緊張感のある音空間と重いパンチを喰らわせるかのようなカットの数々、そして素晴らしい脚本力によって「都市の断片が集まって壊れゆくさま」がうまく描けているからであって、間違いなく良作です。
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