シゲーニョ

ヤング≒アダルトのシゲーニョのレビュー・感想・評価

ヤング≒アダルト(2011年製作の映画)
4.1
公開後しばらく経ってのことだが、映画雑誌かなんかで本作「ヤング≒アダルト(11年)」を、“丸く収まらない「男はつらいよ」みたいな映画”と評した記事を読んだ覚えがある。

「男はつらいよ」の主人公寅さんは、大体、前半「とらや」に帰ってきて、一悶着起こして怒って出ていくところまではイヤな奴なのだが、ストーリーを追いながら観続けていくと、そのうち理解が進み、好感の持てるキャラに様変わりしていく。

たしかに本作は「男はつらいよ」みたいに、“トウのたった独り身が右往左往”する映画で、大雑把な言い方をすれば、コンセプトは似通っているかもしれないが…。

しかし、本作でシャーリーズ・セロン演じるメイビスは、ものスゴ〜く強烈なキャラで、主人公なのに心に敵う要素がほぼ無い。

メイビスは30代後半のヤングアダルト小説のゴーストライター。
シリーズの打ち切りが決まり、失業寸前なのに筆が進まず、仕事と人生に煮詰まり、酒浸りの日々を送っていたところ、ある日、高校時代の元カレ、バディ(パトリック・ウィルソン)が送りつけてきた「子どもが産まれたよ!一緒に誕生日を祝って〜♪」というかなり無神経なメールによって、生来のゴーマンで攻撃的な性格に火を注がれることになる。

そこで「やっぱ、私は彼と結ばれるべきだった!略奪愛で青春時代の輝きを取り戻すわ!」と、ボロいミニクーパーで地元マーキュリーに殴り込む、クズい主人公なのだ。
(ちなみに、劇中、メイビスが書いた小説の中で一番売れたタイトルが「Galloping Toward Trouble(トラブルに向かって大暴走)」…笑)

まぁ、粗筋だけ読めば、そのプロットは故郷に戻り、幼馴染の元恋人を現在のガールフレンドから奪おうとする、ジュリア・ロバーツのヒット作「ベスト・フレンズ・ウェディング(97年)」に似ているし、廃れた田舎から都会へと飛び出した女性が、あるきっかけで故郷に舞い戻って騒動を起こす展開も、「ロミーとミッシェルの場合(97年)」を彷彿させる。

しかし、レビュー序盤にしてのネタバレで大変恐縮だが…(汗)
この手の映画は、多少は主人公に共感や肩入れができるのが当たり前なのだが、本作「ヤング≒アダルト」のヒロインにだけは、全くそれができない。

メイビスに終始掻き回された挙げ句、登場人物のウチ、誰一人もハッピーな気分になれないまま終幕するのだ。

明るいラブストーリーなんかじゃない。
思わず目を背けたり、気まずくなったり、身をよじりたくなるほどの居心地の悪さを感じたりするシーンが度々描かれる。

例えば、メイビスは劇中でよく、「あの頃の自分は最高だった」と口にする。

高校時代のメイビスは、その生まれながらのキレイな見た目のお陰で、プロムクイーンに選ばれるなど、絶えず周りからチヤホヤされてきた。
しかしアラフォーとなった今は負け犬状態。その逃避目的で、10代の頃の自分を追い求めている。
だから10代の読者を中心とするヤングアダルト小説のライターになり、10代向けのリアリティ番組ばかり、家で独り観ているのだ。

その生活態度というか、暮らしぶりもまるで10代の子どものよう…。
部屋は散らかりっぱなし、ソファーで昼寝している時はTVを付けっぱなし、ペットの犬も放置しっぱなし。

さらに2リットルのペットボトルのダイエットコーラをゴキュゴキュと直飲みするわ、仕事が行き詰まると目的も無いのにスーパーに出かけ、無駄買いをし、何かを達成したような気分になる。

また、不安な気持ちに駆られると、無意識に後頭部、襟足近くの髪の毛を抜く癖もある。
(医学書を読むと、ストレスを我慢してそれから逃避する行為、自分の体を傷つけて心の苦しみを和らげようとする行為だそうです…)

そしてストレスが過食行動へと走らせるのか、ジャンクフード店では軽く2~3人前はあるかと思うほどの量を、涼しい顔でオーダーする。

そんなメイビスが故郷マーキュリーに戻る時、カーステで一発目にかける曲が、英国出身のオルタナ系ロックバンド、ティーンエイジクラブの「The Concept(91年)」。
高校時代、交際中にバディが「僕の気持ちを歌にして送るよ」的なノリで、メイビスに渡したカセットテープに収録されている曲で、テープのラベルには「Mad Love Buddy」と書かれている…。

「彼女はいつもデニムを履いている/ステイタス・クォーのレコードを買いに行く時でさえも/それが彼女/意志が強くて自分を曲げず/ドラッグはやらないけどピルは飲んでいる/キミを傷つける気はなかったんだ Oh Yeah〜♪」

メイビスは運転しながら、大声で口ずさむ! 何度も巻き戻して怪気炎を上げる!

監督のジェイソン・ライトマン曰く
「メイビスは大人の入り口を見失い、もがいている女性だ。
だからティーンエイジャー向けの本を書く。
そして彼女の人生で輝いていた頃を象徴するのが、この曲なんだ」

「The Concept」は、人生における“ある期間”を定義する歌だ。
誰にでも、将来を疑わない最高に輝く時があり、全てが上手くいくと思える気分に駆られることがある。だが、そんな一時は、大人になりかけた頃に過ぎ去っていく。それが“現実”だと歌っているのだ。

しかしメイビスは、そんな歌の主題・真意なんか気付かない。
もしかしたら理解しているのかもしれないが、自分に良いように解釈している。

そして、このメイビスにとって大切な曲がそんな彼女の思いとは裏腹に、ストレスが限界値を超えそうになるくらい、メイビスの嫉妬心に火をつける“導火線”になってしまう。

元カレのバディの奥さん、ベス(エリザベス・リーサー)は趣味で、ママ友と結成したバンドでドラムを叩いているのだが、そのライブの1曲めが、なんと「The Concept」。
しかも曲紹介で「ベスが最愛の人、旦那さんのバディに捧げる曲!」というアナウンス付き!!

ベスのバンドがこの曲を演奏している時、ライブハウスでノリノリじゃないのは、メイビスただ一人…。
自分とバディ二人だけの思い出の曲と(勝手に)思っていたのに、ドラムを叩きながら、大声で楽しそうに歌うベス。それを無言で憎むような目つきで睨むメイビス。

これが漫画なら、メイビスの顔の横に「キィー!憎いぃぃぃぃーーー!!!」という吹き出しが間違いなく描かれるほどの、強烈な絵づらだ。

居た堪れなくなったメイビスは、隣にいる楽しそうなバディに向かって、悔し紛れにこう言い放つ。
「昔、この曲聴きながら燃えたわよね♡♡ フェ○チオしながら聴いた曲よ〜」

メイビスには罪悪感が無く、自分が正義だと思っているフシがある。
だからブレーキを踏まない。思ったことをすぐ口に出したり、顔に出したりするのだ。

バディとのレストランでのデートが決まり、完璧にめかし込むために、ネイルサロンに赴くのだが、甘皮を整えたりネイルを塗られる際、鋭い目つきでスタッフに「ちゃんと丁寧に仕事してよねぇ〜!」と、無言ながら圧をかける。

また、「Macy’s」という、都会から離れた郊外によくありそうなショッピングモールで、デート用の勝負服を買おうとするのだが、「イケてない服ばっか!!」と不満タラタラで、店員に高級ブランドの「Marc Jacobs(マーク・ジェイコブズ)なんてあるわけないか?」と嫌味を言う。
(普段着はハローキティのグレーのTシャツに、大きめのサイズのスウェットパンツを履いてるクセして…笑)

メイビスは「自分を癒すためには、その犠牲として誰かが傷つかなければならない」とマジに思っていて、しかもそれは昔かららしく、そのため、帰郷して出会う同窓生たちから「Psychotic Prom Queen Bitch(サイコの元プロムクィーンでビッチ野郎!)」と陰口を叩かれる始末…。

自分の故郷をつまらない田舎と馬鹿にし、そこに暮らす人たちと自分を一緒にしないでとばかりに見下していているメイビス。

仕事もプライベートも幸せとは言えない今の生活に向き合うことをせず、かつて自分が一番輝いていた頃の彼氏とよりを戻すことが、冴えない現状から抜け出して幸せになる方法だと思い込み、どんどん暴走していくメイビス。

その暴走具合は観ていてホントにイタいのだが、そんなメイビスを陰で支えるというか、意外にも意気投合してしまうのが、高校時代にゲイと思われ、ジョックスに暴行されて右脚の膝下を粉砕骨折。さらにはチ○ポも折られ、早くもオトコとしての人生終了のお知らせを受けた、元いじめられっ子の同級生マット(パットン・オズワルド)。

集う客はレッドネックか友達ゼロの独身オヤジばかりのプールバーで、最初にマットと会った時は完全に忘れていたのに、思い出すとメイビスは“ヘイトクライムちゃん”呼ばわりする。

もしかしたらマットがゲイと疑われた元凶はメイビスかもしれない。

そんなマットは、世間に背を向けて密造酒とフィギュア作りに精を出している。
8年物のバーボンにつけた名前が「モス・アイズリー・スペシャル」。
その由来となる「モス・アイズリー」は大抵のSF映画ファンならお分かりの通り、「スター・ウォーズ/新たなる希望(77年)」で出てきた宇宙港の名前だ。

そしてフィギュア作りは、脚の不自由なマットにとって、癒しの手段。
GIジョーやウォッチメンのキャラクター、そのパーツを勝手に組み合わせて作り替えている。
フィギュアの頭や脚を付け替えるのは、「イケメンになりたい!健常者のようにちゃんと歩きたい!」という自分の願望の顕れに思えてしまう。

メイビスがなぜマットとウマが合ったのかは、多分、自分より下に位置するオトコだと思っていて、自分がいかに不幸だとしてもコイツよりはマシ!と思える相手であり、案外、聞き上手で、しかも自作のうまい酒を大量に持っているというところだろう。

ただし、陽気に酒を酌み交わすメイビスとマットを観ていると、心と体が壊れてしまった同士のラブストーリーと思えなくもない。

恋をしている人は大抵「お互いの好みが一緒」と思っているが、メイビスとマットは「自分たちは嫌いなものが一緒」。

この二人が他人の悪口を言い合ったり、蔑んだ目で他者を見るのは嫉妬心が原因ではない。
自分の意を汲み取ってくれない、本当の自分を分かってくれないという、失望感からだろう。そしてそれに押し潰れまいと懸命になって、世の中に、他人に不満をぶつけるのだ。

マットとメイビスは世の中を呪っている。
己の心に秘めていた“怒り・憎しみ”を本音でぶつけられる、分かち合える同士なのだ。

劇中、マットがメイビスに「You’re a Piece of Work(キミは自己中オンナだな)」と言うと、メイビスは笑いながら「You’re a Piece of Shit(あんたはクソ野郎よ!笑)と言い返す。

この時の意気投合した二人が、スコッチウィスキーをショットグラスで乾杯する時の表情は最高だ!
というか、シャーリーズ・セロンが劇中で見せる、心からの笑みはこのワンカットだけだったような気がする…。
(ちなみに、メイビスが劇中、PCで小説の原稿を書く時のワードの拡張子、ファイル名が「pieceofshit.doc」)

さて、こんな“究極のこじらせアラフォー女性”を演じたシャーリーズ・セロンだが、開巻してすぐに感心させられたのは「ホント、この役、よく引き受けたな」ということだ。

本作を観るまで、個人的にシャーリーズ・セロンに抱いていたイメージは、シリアルキラーを演じた「モンスター(03年)」とか、世界初のセクハラ裁判を起こした女性の実話「スタンドアップ(05年)」みたいな演技派ぶった汚れ役をやるよりも、持って生まれた美貌と体格をなぜ最大の武器として使わないのかという疑問、セロンにしてみれば余計なお世話ながらの慨嘆だった。

じゃあ、軽妙なコメディやアメコミヒーローものなど、手っ取り早く美貌を活かせるような作品に出演すれば事足りるのかと云えば、「スコーピオンの恋まじない(01年)」「ミニミニ大作戦(03年)」「イーオン・フラックス(05年)」「ハンコック(08年)」といった作品にセロンは何度も挑戦するが、どれもこちらが期待していたほどの成果を上げてくれない…。

概ねセロンの演技には、リラックスして役を楽しむ余裕が感じられず、だからいつも面白みが無く、何より可愛げが無い。

いつもシリアス寄りでどこか柔軟性にかける印象で、ノリの軽い演出やポップな世界観に不向きだと感じざるを得なかったのが正直なところで、単刀直入に申せば、作り物の庶民性をアピールして、それを見透かされていることを分かりきって演じているような“白々しさ”があった。

エンタメ作品にはシリアスな個性が馴染めず、シリアスな人間ドラマでは美し過ぎる容貌が浮き上がってしまう現実。
(だから「モンスター」での、悪目立ちするほど顔を汚したり太ったりといった処置は、役作り以上に必要に迫られての「ブス作り」だったと思う…)

そんな彼女の美貌と個性を最大限に生かせる作品、キャラクターに出会うことなど相当難儀なことだと勝手に先行きを案じていた矢先に、公開されたのが本作「ヤング≒アダルト」。

ともすれば、それまでの作品では欠点になることが多かった「頑な」で「面白みが無い」「愛嬌も隙も無い」個性が、メイビスを演じる上で、プラスに転じたように鑑賞中、徐々に思えてきてしまったのだ。

確かに公開時、セロンの完璧な容貌では、売れなくなった元モデルというならまだしも、売れ残りのライターくずれというキャラクターに説得力が出ないという批判的な意見が多かった。

しかし本篇を終始貫く、笑いプラスアルファいたたまれない緊張感は、セロンがヒロインを演じなければ、ここまで出せなかったと正直思うし、監督ジェイソン・ライトマンの本作の狙いが、“安易に笑えない痛さ”であることは間違いない。

ちなみにライトマンは脚本を最初に読んだ時、「13日の金曜日」シリーズのようなホラー映画だと思ったそうだ。
メイビスは「結婚の破壊者」であり、しかも最後まで生き残る…(笑)。
そして脚本を読み終えるや、すぐにメイビス役で頭に浮かんだのが、シャーリーズ・セロンだったらしい…。

そんなライトマンの思い・要求に応えたかのように、セロン演じるメイビスはイタい女というよりも、(いい意味で)どこかタカが外れたサイコな女に見えてきてしまう場面が結構ある。

例えば、久しぶりに戻った実家のシーン。
メイビスは昔と何も変わらない自分の部屋で、高校時代の思い出の品を手に取る。
アクセサリー、マニキュアや口紅といった化粧品、お気に入りの曲を集めたカセットテープ…そして最後にシュシュで髪を束ね、鏡に映った自分を眺めるメイビス。その顔つきは17歳の頃に戻った少女のようで、うっとりした笑みを浮かべている。

だが、両親がメイビスの過去の思い出の品を大事にしていることが、気に入らない。癪に触る。
どんなに願っても取り戻せない“過去”であると同時に、“今”の自分を否定しているように思えてしまうからだ。

父デヴィッド(リチャード・ベキンス)が「10代の頃のバディとお前は本当にお似合いだった」と言えば、「そうでしょ!そういった直感って大事なのよ。でも世の中は間違ってばかり。だから、私が最終的に正してやるのよ!」と声を張りあげる。
母ヘッダ(ジル・アイケンベリー)は「あなたのことをちゃんと理解している人たちの、今の生活を乱してはいけない」と注意するのだが…。

まぁ、正直に申せば、過去の出演作でセロンに感じていたフラストレーションが、一気に雲散するほど小気味いい演技だったとは言い難いが、メイビスを演じたことで覚醒したようにも感じられ、その結果、セロンの当たり役となった闘う大女・スクリーンの怒れる女神「マッドマックス 怒りのデス・ロード(15年)」でのフュリオサに巡り会えたように思えてならない。


さて、ここまで、本作をクサす文句を色々と並べてきたが、実のところ鑑賞中、身近にいたら最低の、こんなにイタくて面倒くさい女を、なんで応援しているんだろうって気持ちになっていた。

それは本作を観ながら、「メイビスと自分自身をどこか重なる人もいるんじゃないだろうか」という思いが芽生えたからだ。

自分が一番賢いと思っていたり、SNSで他人のことを「またバカが何か言ってるよ!」と軽蔑したり、メイビスのように思春期の頃の曲を聴いて懐かしくなって過去にすがって逃げちゃうような人は、少なからずいると思う。

本作は、そういう自分の痛いところを突いてくる映画なのではないだろうか。

また、「私の性格、最悪かもしんない!」って思っている人も、本作での最悪の性格のヒロインを観れば、「自分はまだマシなのかもしれない」と思えるかもしれない。

そんな若干ネガティブな人たちも、監督ライトマンが本作で仕掛けたカメラワーク=客観的に引いた視点で現実をじっくりと眺めてみれば、「私って、こんなに滑稽だったのか!」って笑い飛ばせて気分がスッと楽になるんじゃないかと、もしかしたら自分だけかもしれないが、観ていて思わされてしまったのだ。

そして最も自分が惹かれたのが、メイビスの自己肯定感の強さ。

終盤、メイビスはこんな台詞を吐く。
「It’s Really Difficult for Me to Be Happy(私の幸せのハードルって高いの!)」

メイビスは自分のプライドが高すぎて、幸せになれないことを自覚している。
ならば、ハードルを下げるか、幸せの定義を変えればもっと楽になるんじゃないかと思ってしまうのが普通だが、メイビスは一向に襟を正そうとしない。

里帰りして大騒動を起こしたことで、「私は最低の女」ということだけは理解するが、そのうえで「ああ私は最低だった。でも、まぁいっか、私はありのままで行こう!」と最後まで反省しないのだ(!!)

その開き直りが、ある意味、清々しい…(笑)。

今の自分を全否定するでもなく、ありのままに受け入れて、変わることと変わらないこと、どちらも肯定している雰囲気があるのだ。

たしかに主人公が心を入れ替え、成長して最後にハッピーエンドになる映画は、観ていて気持ち良いし共感できるだろう。だが現実世界では、そんな数日間で人間が変わることなんてあり得ないし、簡単に問題が解決することなどほぼ不可能だ。

過ちに気付いたとしても、簡単に自分を変えることは難しい。
タバコが体に悪いと分かっても我慢できるのは3日くらい。急にベジタリアンにもなれないし…。

本作はそんな現実と虚構の乖離を、絶妙な“さじ加減”で結び付け、“リアリスティック”に描いていると思う。
変わろうと思っている人の背中も押してくれるし、変われない人のことも受け入れてくれるような、そんな作品に思えてしまうのだ。

ただし、「こんなクソ田舎にいちゃダメだわ」って、カラッと元気になって都会に戻るラストシーン。

メイビスが走らせるミニクーパー、その道路に「Right Lane Must Turn Right(右車線に入って右折せよ)」、つまり「正しい道を歩みなさい」とでも暗示するような標識がチラッと見えるのだが、悲しいかなメイビスの車は故障していて、ウィンカーランプは左側しか点灯しないのだ…(爆)。

最後に…

本作「ヤング≒アダルト」のエンドロールには、モータウンが生んだ伝説の歌姫ダイアナ・ロスが歌う「When We Grow Up 」が流れる。

マーロウ・トーマスの児童文学「Free to Be…You and Me」を原作とした1974年製作の同名TV番組の挿入歌で、マイケル・ジャクソンとロバータ・フラックが子どもたちに向けて、大人への階段を登る時「どうすべきか」ではなく、「どうなれるか」が大切であるというメッセージを込めて歌い上げた名曲。

それをCD化の際にダイアナ・ロスがカバーしたものだ。

そして本作での使用意図は、エンディングを迎え、とある決心をすることで落ち着いたメイビスを、敢えて説きつけるかのような、深い意味合いが込められている。

「大人になったら私も可愛くなれるかな/背も伸びて強くなれるかな/(中略)でも、自分が美人かどうかなんて気にしない/あなたの背が低くても気にしないわ/自分の見た目が好きなの/あなたが小さくても素敵に思う/私たちは何も変える必要がないのよ/(中略)大人になったら、また会えるかな/私もあなたも今と同じかな/可愛くなっているかもしれない/あなたも身長が伸びているかもしれない/でも私たち自身は変わる必要はない/私は変わりたくない/あなたの友達でいたいから、永遠に、これからも永遠に」

これは劇中、終いぞ垣間見ることが出来なかったメイビスの“本音”のようにも思えるし、誰一人メイビスを傷つけるつもりなど無かったのに、優しさが色々と行き違い、空回りしたことで、最悪の結果を招いてしまったことを後悔する、故郷マーキューリーの人たちの“告解”にも聴こえてくる。

この歌の意味をちゃんと理解したかどうかで、本作の印象はガラリと変わるはずだ。

だから、劇場での本邦初公開時、そしてDVD並びにBlu-ray発売時、歌の和訳を字幕でテロップインしなかった配給会社とメーカーは大いに反省すべきことだと思う…。