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ロスト・イン・トランスレーションのayのレビュー・感想・評価

4.5
20代のころ東京にしばらく滞在したというソフィア・コッポラが独自のアンテナで撮った、ゼロ年代初頭のTokyo。久しぶりに改めてみてみたら、前よりもっと好きな作品だった。  

カメラマンの夫に同行来日して手持ちぶさたのシャーロットと、CM撮影現場の独特の慣習にとまどう俳優ボブ。人生がうまく自分のペースで進まなくてどこか満たされないときの異国での出会いほど、あとに残るのかもしれない。高級ホテル・パークハイアット、渋谷のスクランブル交差点、ゲームセンター、日本食、あやしげなバー、カラオケ。リラックスした遊びではしゃぐスカーレット・ヨハンソンとビル・マーレイ。2人の組みあわせが微笑ましい。

ナチュラルなようでいて審美的なこだわりが光った映像。象徴的なのは、この作品以降Tokyoの映像のフレームになった、ネオン街を統一感なく派手に彩る広告とフォントの日本語の羅列のカット。過剰な情報量のヴァーチャルな異世界に迷いこんだような、個性すらぼやける現実感のなさ。誰ひとり知った顔にあわず、すべてを平準化する空間は、寂しさや不安を和らげる役目ももっている。 

タイトルの秀逸さ。"lost in translation"は、同じ会話、同じ場所の意味を変えていく。シャーロットもボブも、翻訳のプロセスで何か大切な意味が失われてしまうことに戸惑っている。翻訳は、日本人とのあいだのコミュニケーションだけじゃなくて、たとえば心の空虚感を身近な人に伝えようとするときにも生じてしまうもの。そして、日本からこの映画をみると、別の視点で "lost in translation"の大きさに気づく。ああ、東京はそう映像に翻訳されるのかあ、という。好奇心のまま、おもねったりしないソフィア・コッポラの視点はちょっといじわるで、日本人には居心地の悪い描写も結構含まれる。

だけど、上京してもいつまで経ってもよそ者の自分が過去にこの映画をみたときには、ほとんど違和感を覚えなかったし、正直、どこか気持ちがすっきりした。「ロスト・イン・トランスレーション」に描かれる90年代のTokyoの、ごっちゃな共存やいい加減さや精緻さへの偏執やよくわからなさは、外から与えられた否定的な意味ではなく、むしろそこにユニークな可能性と魅力があったんだと思う。そもそも、たとえば渋谷・原宿文化はハイブリッドで、戦後のアメリカに拠る占領やワシントン・ハイツ、東急、セゾン文化、渋カジや裏原系ファッション…など、さまざまな影響と雑多な厚みが、本来あったはずで。

邦画にとっても、かつての東京は、カルチャーと社会のバランスを測る空間だった気がする。東京の場所としてのイメージが印象深い邦画は、70年代まではいろいろ濃くあるけど、特に平成直前以降は、AKIRAやエヴァなどのアニメーションに圧倒的に吸引されてるかもしれない。2010年代からの観光地化再開発で渋谷の風景がまた違ったものになってくのをみると、いろんな気持ちがよぎる。あとの人に残るイメージに、たとえばニューヨーク映画みたいな現実の多様さがないと、空間的にも心理的にも複雑さが失われてしまって、どこかに行ってもどこにも行けはしないし、"lost in translation"にもなれないから。
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