レインウォッチャー

ロスト・イン・トランスレーションのレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

4.0
『Translation』の捉え方によって、いくつかの解釈ができるタイトルだと思った。

まずひとつは『翻訳』の意で、タイトルは『翻訳の過程で失われてしまったもの』ってニュアンスになる。これはそのまま、劇中で繰り返し描かれる言語(英語 / 日本語)の壁によるディスコミュニケーション・コメディに繋がるだろう。伝わらない機微、沈澱するストレス。(※1)

加えて、Translationには『移動』の意味もある。こちらを採った場合、『移動の渦中で迷っている』みたいに読むこともやぶさかでなさそうだ。
では、『移動』とは何なのか?ここにも、いくつかの可能性がある。

第一には勿論、日本 / 東京という異国への移動だ。往年の映画スター・ボブ(B・マーレイ)と、忙しいカメラマンの夫に帯同してきたシャーロット(S・ヨハンソン)。
それぞれ事情は異なりつつ、同じようにあまり積極的ではない理由で訪日し、ホテルに閉じ込められたように過ごす中で二人は出会う。自ずと、彼らはうまく眠れない夜を共有するようになり、孤独感を分かち合う。

もうひとつ、「人生の行き先」のようなニュアンスを『移動』の中に感じることもできるだろう。彼らは、この国に来る前から既に「迷って」いる。仕事や家庭、将来設計。年恰好は離れていても、二人は似た色の魂を抱えていて、引かれ合うのは自然なことだったとわかる。

ここにおいて、日本 / 東京という舞台は二人の孤独(と、裏返しとしての連帯)を際立たせるための単なる背景の装置であると思えてくる。
日本独特のカルチャーを巡ったり、京都に足を伸ばしてみたり、と観光映画っぽいこともやるのだけれど、登場する多くの日本人が殆ど人格らしい人格を持っていないように思えることもその一因。画面は大部分が「曇り」(または夜)であり、彼らの薄靄のかかったフィルタ越しの視界(※2)には人も街も天気もこのように映る、ということなのだろう。

二人の間に通ったものが果たして《恋愛》だったのか、は何とも決めきれないところだけれど、その曖昧さゆえに漂う色気、少しは異国の熱に浮かされたような感情の高まり、余りに手放し難い陽炎のようなそれを一歩進んでどうにか自分の知り得る中でのカタチに固定して「しまった」ようなラスト…は胸の深いところに残り続ける。ジザメリが流れる間合いも完璧すぎて。

壮年期の男と成人そこそこの女、しかしそこにあまり嫌らしいものを感じないのは、(B・マーレイの茶目っ気に救われたウェイトも大きいけれど)男女以上に父娘に近い距離感が二人に託されていて、しかもどちらかといえばシャーロットの目線を尊重しているからかもしれない。

後年、S・コッポラ監督はよりダイレクトに自伝的な父娘の映画『SOMEWHERE』を撮る。今作におけるボブとシャーロットの会話(特にベッドでの添い寝トークの場面)は、ある種その前哨戦というかプロトタイプともいえる趣をもっていると思う。(※3)

「これから何をすべきか行き詰まってる」「結婚生活はやがて楽になる?」と打ち明けるシャーロットと、それに応えるボブ。そこには穏やかでごくありふれた、そしてだからこそ理想的な父娘らしい対話がある。
これを安易に、「父F・F・コッポラとの関係が…」とか結びつける気はさらさらないけれど、映画作家という同じフィールドを歩むと決めたが故に「できなかった」対話もあったことだろう。

今作でも『SOMEWHERE』でも、二人はタイムリミットによって迫り来る別れに直面し、しかし男(父)側は意志を持って「ボーダーを越える」選択をする。このあたりに作り手のちょっとした《夢》の片鱗を見つけ、エンパシーを感じることくらいは許されても良いんじゃあないだろうか。映画を作る者も観る者も、終わらない映画の夢の中でLostし続けているのだから。

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※1:こちらが日本人であるがために居心地のわるさを感じる瞬間が少なくない作品ではあるけれど、未だに日本といえばサムライでサイバーな世界を描くような映画も多い中、流石の解像度だと思う。それに本文中でも書いたように、あくまでもこれは閉塞感を抱えた異邦人からのバイアスがかかったビューを表現していると捉えるべきなんだろう。

※2:都会的で低温度の楽曲がセンスで纏められたサウンドトラックの中、一曲ピックアップするなら何と言ってもマイ・ブラディ・ヴァレンタインの『Sometimes』。
シャーロットがタクシーの車窓からネオン街を眺める場面で流れる。歪み尽くして輪郭を失ったギターの雲が、この映画を包む「曇り」のムードそのもの。部屋の窓辺でヘッドフォンをつけていることが多かったシャーロット、やっぱりこれを聴いていたのかな。

※3:その他、酔い潰れて部屋に運んでもらったり、病院に連れてってもらったり、と今作では甘えの一手である。