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仇討崇禅寺馬場のotomisanのレビュー・感想・評価

仇討崇禅寺馬場(1957年製作の映画)
4.1
 これはまた武士としては恥辱の極みだろう。生田伝三郎は大和郡山の殿の指南番。ところが御前試合で勝ちを奪われて罷免。はしたなくもその試合の相手を酒の上の諍いから切り殺し、養家も主家もあとにして大坂でどうしたものか。決心ついて仇討ちの兄弟二人とは尋常の勝負のつもりが、伝三郎が用心棒で身を寄せた侠客の娘、伝三郎に岡惚れのお勝が揃えた加勢に邪魔され討ちも討たれも叶わない。

 お勝も侠客の娘という以上に尋常の娘ではない。武家の名誉も筋道も空念仏にしか聞こえない。だから、惚れた相手を拳銃片手に力づくで奪い取りに行く。結果、仇討ち兄弟は加勢衆に弄り殺され、これでは伝三郎もたまったもんじゃない。
 しかしどうやら、それまでに受けた彼女のアタックから、好きで一緒になる?なんて、指南番の名門に才知を見込まれて入婿し、それを立身出世と喜びこそすれ、妻を愛するも好きであるとも思いもしなければ考え付きもしなかった自分に気が付く。
 だが伝三郎はその発見にとどまれない。それは武士の一分を仇討を受ける事でこれから立て直そうという自身には、いわば道草の間のついでの事だ。と思われたのだが。

 恥辱の上塗りの崇禅寺馬場の失態で武士の命を絶たれた伝三郎が亡霊なりとも二人に蘇ってもらって再度の尋常の立ち合いを願うのももっともだが、こんな思いと根の詰まりは伝三郎の心を蝕み、遂に狂を発する。
 亡霊に告げられ一人合点、再度向かう崇禅寺馬場では仇討兄弟ならぬ、養父と兄弟の母妻とが居合わせる。
 亡霊しか見えない伝三郎、討ち取られよと告げる養父ら、阻止するピストルお勝の三つ巴に再び乱入する曲万一家の乱闘の中でなぜか伝三郎がお勝を斬り、お勝が伝三郎を撃つ。

 ここに仇討ちは後方に退き、狂気の果てに伝三郎はやっとお勝と一緒に死ぬ事ができるが、お勝の死をそれと分かって、思いほのかにお勝を認めて死ぬのか、未だ亡霊との立ち合いに未練を感じながら死ぬのだろうか?余韻を嫌う最期はどこか燃えきらぬ、まさに監督の思うところそのままと感じられた。
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