ナガノヤスユ記

突然炎のごとくのナガノヤスユ記のレビュー・感想・評価

突然炎のごとく(1961年製作の映画)
4.5
あの頃渋谷TSUTAYAでVHSを借りて見ていたトリュフォーの作品群が突如U-NEXTに大量投下されひそやかに沸き立つ私、とジュール、とジム。
クライムなきファム・ファタル映画。であり、個人的な大好物でもある2男1女映画。
ジャン=ピエール・レオーがおらずとも、あれだけ溌剌とした画面のダイナミズムが作れるのだから、トリュフォーの才気が窺えるというもの。
文字どおりフレームを逸脱したカトリーヌ=ジャンヌ・モローと、それに振り回される衛星のような男どもの軌跡なき軌跡。女が「徹底した」自己実現に生きれば、結末は知れている、なんて書くと色々やっかまれそうだけど、つまりそういうことで、結局、自由恋愛の謳う自由なんてたかが知れている、ということである。誰もが不徹底を徹底している。しかしそれは、管理者にとってちょうど都合のいい、取りこみやすい家族制度を維持するためのいわば資本的な包摂の常套手段なのであって、それにおどらされて市場にならぶ異性を取っ替え引っ替え品定めしているうちは、セクシャリティ (から)の解放などはるか遠い。自前で舞える者は少ない。そんな雁字搦めの、見せかけの自由の平面から抜け出し、真にひらけた、ずるむけの生き方を望むのであれば、文字どおり自らの人生を全ベットする (別次元にダイブする)必要がある。そうなれば、愛したほうも愛されたほうもただでは済まない。その断崖に立ちつくしたとき、愛するとは与えることなどという空虚な言説は到底受けつけない。むしろこう言うべきなのである。愛するとは眼前の境界を、それに接続する自他もろとも破壊することなのだ、と。
そうして、ここではないどこか、あなたではない誰か、追えば追うほど遠ざかる地平線のごとき幻想をあてもなくさがしつづけ、彷徨いつづけた果て、人間は再起不能なほどに傷つき損壊し、まったく自分を見失って混乱したまま、生まれた姿とはまるで別のものになって死ぬ。
それはどうやら欲望の秩序を持ち合わせなかった私たち人間の典型的な悲劇なのだが、その実存的課題を思う存分に引き受け全身で全うする人は思いもかけず美しい。