せいか

ヴェラ・ドレイクのせいかのネタバレレビュー・内容・結末

ヴェラ・ドレイク(2004年製作の映画)
4.5

このレビューはネタバレを含みます

(自分用雑記メモ感想)

「奇跡は起こる」
団地の中ですし詰めになって暮らす、貧しい一家の夫が妻との出会いについて語る言葉である。

大戦後間もない1950年のイギリス。老若男女がその記憶を抱き(戦後まもなくの凄惨さを含む)、生活している。主人公は団地の中の優しいおせっかいおばさん的ポジションにあり、そこに住まう人々や周囲に気を配り、手助けを行うことも憚らない(が、これをいつか痛い目にあうおせっかいだとか不愉快だととる人々ももちろんいる)。彼女を通して随所に貧しい人々の苦しみが侵食してくるように描かれている。
主人公は普段は裕福な人々の家を回って掃除をする仕事をしているが(召使い扱いなので存在は無視されている)、その相手の豊かさと傲慢さに対しても何かネガティブな感情を出すこともない。
倦怠や妙な息詰まり、身勝手、虚栄心、驕りなど、そうしたもので生活に追われている他人たちから、ヴェラは浮いた存在である。だが、ささやかな幸せの中で相手を思いやりながら生きている彼女にはしかし秘密があった……というのが、作品の肝である。

彼女が行っていたのは非合法の堕児介助なのだが、この時代は正攻法で堕児の手続きを踏むのはかなり困難なもので(そもそも犯罪扱いなのである)、問答無用の高額負担であったり、女性には精神的苦痛も伴う過程を経る必要があったらしいことが作中では示唆されている(ことこまかに内情や家庭環境を問われる、不幸な妊娠であっても堕児をさせまいと持ちかけようとするなど、今で言えばいわゆるセカンドレイプやモラハラ的な扱いを受ける。精神科医を通されたり、とにかく、本作から伺い知る範囲では、堕児するに相応しいと世間に許可を取らねばならなかったようだ)。とはいえ、何らかの形で望まぬ妊娠をしてしまう女性は出てくる。主人公はそうした女性たちのために暗躍していたのだ。
堕児申し込みの仲介を勤める女性は2ギニーの報酬をこっそり受け取ってはいるが、主人公にそれは知らされておらず、彼女はあくまでもボランティアでそれをやっており、利用されている状態でもある。ちなみにこの仲介役は主人公に話を持ってくるときに(多分)相場よりも安価で食品類を売ったりもしているらしく、かなりしたたかである。
だが、ここで取られる手法が、(もちろん衛生にはそれなりに気を配りつつ)、子宮を石鹸水で満たし、翌日もしくは翌々日あたりに腹痛と共にそれらと嬰児を排出するという方法で、観ていてなかなかこちらの下腹部も痛くなってくるやり方であった(施術自体はごく簡単で負担の少ないものなのだが)。
主人公が妊娠女性と会うのもそうした処置をする一度きりで、妊娠女性からすれば不確かな処置に責任の所在もないこうした対応に不安感はさらに募るところもある。彼女たちが戸惑おうとも、それ以上はこの主人公ですら寄り添おうとはしない。
施術もなんかその後も影響はありそうな気もする。女性器と石鹸ってあんまり相性よくなさそうだし。……と思っていたら、案の状で、腹中の水を出すときに血と嬰児が流れ出しはするらしいが、その後、多くの女性が急変しては医者のもとへ運ばれていたらしいことが視聴者には提示される。毎週末のようにそうした危険な状態に陥っている女性がおり、病院側もすでに、何者かがこうした処置をしているのは察知しており、この被害を食い止めねばならないと起訴することにする(そもそも堕児が困難であるからこそ、こうした事態になっているというものではあるのだが)。それぞれの倫理と正義がこうして相容れないのは現代においても見られることだろうとは思うので、決してこうしたテーマに古さは感じられない。女性の性に関する支配的な態度と入れ違いは、生理やピル処置、事後避妊薬処置などにたいする世間の感覚や医者の判断、手続きの非スマートさからも分かることであろう。

作中で主人公の娘と近所の男が結ばれるのだが、プロポーズを受けたときの内気な娘の逡巡を観ていて、この時代なんかは特に、家を出て夫と共に生きていくことを決めるという選択をするのはそう簡単に肯けない難しいものだったのだろうなあと思った。もちろん、現代においても結婚とは薔薇色に美しいものなどではないし、先行きの見えないものなのだが、逃げ出せなさ、どん詰まり感、(一方的な)運命共同体感があっただろう割合はかなり高かったのではないかとは思うし。
本作は主人公ももちろん、とにかく女性に焦点を当てている作品だとも思う。その閉塞感がそこかしこに散らばっていて、ヴェラがポンプで女性器に石鹸水を注入する行為に収束していく。胎の中で無理矢理に溺れ、殺され、流されて捨てられる塊は社会の歪みを象徴する物体なのだろう。

堕児補助をする謎の女の起訴のほうへと話が進む中で、冒頭ではささやかな幸福の渦中に居たように見えるヴェラの幸せにも翳りがあることが示される。
夫は妻が不貞を犯したような弱かった身内とは異なって良かったということ、自分は親を亡くして苦労したがなんとかやってこれたこと、そしてまた戦争がどんなものであったか、自分が何を見てきたかをひたすらに語る(本作では戦争の記憶語りが目立つが、その中心にいるのはいつもこの夫である)。そうして「おれは幸せ者だ」と語って抱き寄せる夫に対し、ヴェラはどこか悲しげにそれに微笑む。その彼女の痛みがなんとなくこちらにも伝わってくる。夫はかなり優しい人物だが、普通に、そして立派に生きることを是としており、ある意味、暗部には目を向けないところがあるというか。それでいて後で妻の罪が露呈しても簡単には見放さず苦悩するところなども、観ていて苦しい人でもある。

娘の婚約を祝い、六畳ほどの居間に身内も呼んでささやかなお茶会が開く中、背後では着実にヴェラの正体に迫っていく警察が近づいてくる。
夫は娘に、すぐに子供ができるだろうと無邪気に語り、夫の兄弟の妻の妊娠も明かされてお祝いムードも残酷に高まる中で警察が玄関に現れ、それに応対した夫は、妻が悪いことをするはずがないと戸惑う。
そして家族は近付けずに取り調べが別室で始まると、彼女はすぐに自白をする。なぜ警察が来たのかは分かる。私がしたことに原因があるのだ、「娘たちを助けたこと」だと。あくまでも彼女は自分はそうしたのだと主張するのである(だが、警察がなぜ来たのかは理解しているところに相剋がある)。
ただし、直接的な言葉は使わず(困っていた時に娘たちを助けた、体を元の状態にしたなどと発言)、ひたすら迂遠な言い回しをしては、震え、お祝いを台無しにしたことを静かに嘆く。警察が「あなたが堕児させた」と冷静に突きつければ、小刻みに首を振る。
「そうじゃないです あなたはそう言うけど 人を助けただけ 私が助けなければ他に誰もいないんです」
そして警察がある女性は昨夜、あなたのしたことで死にかけたことを伝えられると、彼女はついに動揺し、涙を流す。そうして違法な堕児行為のかとで逮捕に至る。署で27年間一度も外したことがないという結婚指輪を外すように言われて嫌がる彼女の小ささがまた胸を打つ。家族の絆が無くなるかもしれないことをとにかく恐れているのだろう。

尋問の中で彼女は自分が具体的に何年ほど堕児行為をしていたのかも言い出せず(ただ、「長い間」としか言えないのだ)、なぜしたのかも言い出せず、あなたも若いころに困ったことがあったのかという問いにもただ涙をこぼす。施術した娘でその後病気になった者はという問いには、彼女はその時にしか会わないのだからもちろんそんなことは知りようもなく、誰もとしか答えられない。料金ももらわずに無料で奉仕したことにも「もちろんです 困ってたんで」と答え(この時に仲介役が料金をせしめていたことも知らされる)、最初から描かれてきた彼女のおせっかいおばさん的な献身の純粋さと異常さとこうなった現状とがときかくこちらの胃を痛めてくる。彼女の献身は社会の底のほうにある人間の暗い生活にただ手を伸ばすもので、それが良いか悪いかとかとは言えない、なんだかすごく難しい話なのだ。
彼女が供述書を確かめてサインする間、一瞬だけ署内の様子が映し出される。連行されてきた男と警官が、「壁登りが犯罪か?」「壁の向こう側が問題なんです」と一瞬だけやり取りをするが、警察側(法律側)の立場からすれば、ヴェラの行った行為の問題性もそこにあるのだろう。なんとも残酷で有無を言わせぬ正義である。
そして彼女は1861年に制定された法に基づき、その罪を糾弾される。
   → 参照:Wikipedia『人工妊娠中絶法』のイギリスの項目  https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E5%B7%A5%E5%A6%8A%E5%A8%A0%E4%B8%AD%E7%B5%B6%E6%B3%95

警察の計らいで(警察側は一貫して優しさがあったとは思う)自分の口から夫に罪を明かし、一人家に帰った夫は、兄弟に、「困ったことになった」と語る。「困っている人々」を助けてきた夫人が原因でその家族が「困ったことになる」という、ストレスマッハな因果応報の事態になるのだ。
それから夫は息子と娘にも打ちあけるが、息子は、そんなことは間違っていると語気を荒める。ここで夫と息子が、彼女が優しいからこそ助けたのだ、家族の恥だ、違う、と静かに言い争うのも、冒頭の貧しさの中の幸福がどんどん綻びていくようで本当につらい。しかも息子、保釈されて家に帰ってきた主人公への第一声が「なぜ帰ってきたの?」で、静かに抱きしめあった娘とは大違いだ。
弟夫婦は自身の自宅で(団地とは違い、広い一軒家)話し合い、弟のほうは、六歳のころからヴェラとは知り合いで、母代わりとなって僕を一人前にしてくれた。二人が結婚してからも親しく付き合ってきた、貯金もはたいてくれたと話すが、妻のほうは「あんな身勝手な人」と評する。この妻のほうがわがまま言いたい放題で過ごしているのだが、他人と距離を置き、お節介をせず、法を犯すこともしないのだからそのドライさは一応正しくはある。ここにも簡単には片付かない善悪がある。

緊張した家族会議での息子とヴェラの会話。
「なぜあんなことを? 理解できないよ」
「無理もないわ」
「なぜだい?」
「助けるためよ」
「悪いことだろ」
「違うわ」
「違わないさ 赤ん坊だよ 噂では聞いてた 新聞でも読んだけど まさか自分のママが… 犯罪だよ!(…)それでどうする? 幸せな家族のふりをするのか?(…)僕らに嘘をついた(…)汚いよ」

その後、婚約者も事態の内容を聞き、世の中の不公平さを息子に語る。自身も子沢山の親の元ですし詰めになって暮らしていたこと。金や食べ物がなければ子供は育てられないこと。ここでまた話の根底に貧富の差や格差があることが触れられるのである。

ヴェラの罪が世間にすぐに知れ渡ることとその弊害を話し合う父子。ここでもとにかく息子は納得がいかず、ツンツンとする。
「戦争に行くときに言ったよね パパは “今からお前が家族を守るんだぞ”と 僕は頑張ったよ まだ14歳だったが 僕とママとで力を合わせて その頃もしてたんだ(…)ママを許せるの?」
「もちろんできるさ 自分のママだろ ママは何でも許すぞ 確かに悪いことをした だが もう十分に罰を受けた ママを見捨てるな」

罪が露呈してからのヴェラはとにかく静かで無口で消極的で、ずっと悲しい顔をして追い詰められている。
今まで自分が「助けてきた」女性たちも彼女のために法廷には立たず、手助けはしない。彼女たちの気持ちが分からないわけでもないので、それを悪いとも言えない。
ワガママな弟の妻がこれ見よがしに仕方なしにクリスマスパーティーに行くわよ、あなたのためにと言うのも、それはそれで分かる。

法廷のシーンはどれも無機質だが、特にラストのものはそれが際立つ。彼女自身にはただ「(わたしの行為は)有罪です」とだけ言わせ、
「ヴェラ・ドレイク あなたは とても見過ごせない罪を犯した 法律は明快だ あなたはその法律を犯した しかも その行為のせいで-- か弱く 若い娘の命を危険にさらした そして今回 医師に告発されなければ 処置を続け 本件より深刻な結果を 招いていたかもしれない だが先程-- 自分の罪を認めたことは 考慮に値する ただ弁護側の主張を注意深く聞いても 実刑判決をのがれさせるに足ると私を納得させられる主張は全く聞き出せなかった むしろ あなたの犯罪の重大さを これから下す判決に反映させることで 同種の犯罪を抑止すべきだ 判決を言い渡す 被告を禁錮刑に処す」と断ずる。
そしてヴェラは監獄で自分とおなじことをした女たちに出会い(彼女たちの処置相手は死んだらしく、頑なにぜったいに安全だったと語る。再犯でもあるらしい)、家族たちは家で沈痛に過ごし、この映画は暗いまま終わる。
社会の淀みにあえぐ人々に代わりに不器用に手をさしのべた彼女を社会は助けず(おせっかいでしかなかったのだろうか)、その人間の営みを是非するのではなく、法律に書かれていることにのみ冷たく従う。暗い社会はひたすら暗いままで歪みが正されることもなく、善悪のどちらにも振れながら人々は苦しんで生きていくしかない。奇跡なんて起きることもなく、幸せは簡単に壊れてしまう。

なかなか重たい話であったし、半世紀以上昔の話だと過去のものだと処理できない苦悩を突きつけてくる作品だった。歪みは正されず、そして今にも地続きであるのだから。



余談だが、主人公のヴェラは、ハリーポッターシリーズでアンブリッジ役をしていたイメルダ・スタウントンである。真逆の「おせっかいおばさん」をやっていたのだなあ。

あと、向かいの棟に住まい、主人公が気にかけていた青年役のエディ・マーサンは『おみおくりの作法』で主人公をしていた人物。あまり意識したことがなかったが、それに気が付いたので彼の出演作品一覧を眺めるなどもしていた。

あと、レトロな水色(何か具体的な色名はあったはずだが忘れた)の車って妙にかわいいよなあ。余談。
せいか

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