Jeffrey

マタギのJeffreyのレビュー・感想・評価

マタギ(1982年製作の映画)
4.0
「マタギ」

〜最初に一言、日本(秋田県)の伝統文化を描いた、児童映画としては最高のー本である。もう、この手の映画が誕生する事は無いだろう…早速私はこの作品を甥っ子に見させたいと思う〜

冒頭、ここは秋田県阿仁町。雪積る山間に巨熊が現る。村田銃に三発の弾を込め、孫と猟犬と山中へ。町の娘の死体、猛特訓、出稼ぎの父、母の死、姉の存在、子犬の赤ちゃん。今、伝統としきたりと儀式。そして文化へと続く…本作は後藤俊夫が昭和五十七年に監督した巨大熊との対決と情愛物語で、ピンク映画に定評があった脚本家兼監督の大和屋が本作の脚本を監督と共同執筆している(驚き)。そして青銅プロダクションによる映画で、毎日映画コンクールで西村晃が男優演技賞を受賞し、ベルリン国際映画祭では監督の後藤俊夫がユニセフ選外佳作賞を受賞している。二〇〇八年の東京国際映画祭の日本映画・ある視点部門でも上映された。同監督では「イタズ 熊」と言う映画もある。所で、マタギの由来は果たして何なのだろうかと考えたときに、今話題のアイヌ文化ならぬアイヌ語に狩りを意味するマタクと言う言葉があるが、四国にも狩をマトギと呼ぶ方言があるとのことだ。山人の使う山言葉の起源はかなり古いので、どこの言葉が曖昧である。

今思い返せば青洞プロダクション「はきらめきの季節」に続いてこの作品を自信を持って発表していた大型劇映画で宣伝されていたことを思い出す。三十五ミリカラービスタ版の本作は、その青銅プロの戦後の第一次独立プロ運動を支えてきた助監督グループの同人組織の一つとして発展してきた創造集団である事はこの業界(映画好きな方)にとっては知られているところだろう。その他にもドキュメンタリー部門でも意欲的な作品を世に送り出していた。そうだな、個人的に好きなのは「男たちの海」「教室205号」などか…。そういえばこの作品の撮影を担当した山崎堯也はもともと大映で働いていたが、一応本作がデビューとなっていたと記憶している。

そして後藤監督は本作を撮る前というか、彼によるデビュー作(処女作)の「こむぎいろのの天使」と言う作品で、既にフランスを始めとするカナダなどの国際コンクールでもグランプリを受賞していて、親を失ったスズメの雛を見事に育て上げるわんぱく坊やとすずめの心の交流を描いた傑作を世に送り出している。確か内閣総理大臣賞並びに文化賞特選賞なども射止めていたと思われる。幼児映画としてはかなりの動員を記録した人気作として一部で知られていた。そうした中、今回は巨熊との再会をひたすらに求める老マタギと猟犬としてダメ犬と言われたチビを見事なマタギ犬に育てあげた孫との愛情物語を描ききっている。特に感動するのが秋田の広大な自然である。厳しい状況下の吹雪の中を三人(正式に言うと二人と一匹)が懸命に立ち向かう所ある。


このたび紀伊国屋から発売されたDVDを購入して、久々に再鑑賞したがやはり傑作である。頗る程に虐待的で現実的で、感動的である。あの熊と犬を戦わせるバトルシーンはものすごいなんていうんだろう、感情的には非常に複雑である。今なおニュースで熊に襲われた人々の事件は報道されるし、新聞にも載る。このような事件を解決するためにこのような職柄があるのは理解できる。しかしながら…と言う痛々しい残酷な一面もあり、それにアレルギー反応を起こす人がいるのもわかる。しかしながらこれはもはや文化であり伝統であるため継続していくしかないのだ。冒頭のシークエンスで儀式的な描写が挟まれるのもその一環だろう。そして所々に挟まれる羽田健太郎の音楽がまた素晴らしい。彼は確か「戦国自衛隊」や「復活の日」の音楽を担当した新進作曲家である。日本アカデミー音楽上も受賞している評価の高い人物である。

本作が最後となった伴 淳三郎が警官役で特別出演している。またぎで有名な秋田県阿仁町の大自然の中で二年間に及ぶオールロケ、本物の巨熊を使っての決死の撮影をして、制作費ー億八千万円をかけて、リアルを追求したダイナミックな感動作が誕生したと当時話題になったそうである。厳しい山の戒律に生き、自然との対話を守る誇り高きマタギ、最後の戦いに挑む感動作が非常に私の胸を打ってきた。こんな作品は確実に今作る事はもう不可能である。主演の西村晃は今村昌平監督の大傑作「赤い殺意」で助演男優賞を受賞した日本屈指の名役者である事は既に承知の通りだろう。彼の演技派であり実力者としての芝居が完璧なまでに発揮された本作の役柄は文句のつけどころがないほど素晴らしかった。まさにストイックなマタギ像に憑依したかのような演技力は圧巻であった。それにしたってあの吹雪の中は、かなり体力を消耗するし、厳しかったと思われる。まさに体当たりな熱演と言うのは本作の西村のことを言うだろう。

西村に負けず劣らずの主演の一人として数えていい孫役には、秋田兼城東中に在学中の安保吉人がオーディションの中から選ばれたそうで、当時の環境下の現代っ子を演じていて、いくたび見せる涙のシーンは慟哭を誘った。そしてこの二人を遥かに凌駕するかのような完璧なマタギ犬の存在感を発揮していた秋田犬(?)はすごかった。そしてこの映画を見るにあたって、このご時世、動物園廃止運動やペット廃止等を叫んでいる過激な連中がいるため、本作の製作者である小島義史さんの創り手からメッセージをここに引用してみようと思う。以下引用文である。

"マタギ衆には、一途の志があります。山上さまの授かりものとして山の生き物をとり、それを己の生業とする山の狩猟民は掟を守り、自然の摂理に従って充足の境地にいたる、節度ある生き方がみてとれます。科学技術の万能を信じ、機能性を進歩と感じ、自然を征服してしまったかのような錯覚を抱きはじめている当今の人たちに、マタギの一途の志はなじまない。だから、この物語の主人公平蔵爺は、のけ者の生活を余儀なくされていく"

上記の文が小島のメッセージであり理解を求める作り手の配慮である。こう読んでみるとなかなか感慨深いものがあるなと感じる。さて、前置きを結構書いてしまったが(私は映画を語る時に、様々な事柄について話したくなる癖があるためどうしても文章が長くなってしまうのはご愛嬌と言うことでお許しいただければ幸いである)。物語を軽く説明したいと思う。本作は冒頭に、雪山の描写でファースト・ショットが始まる。熊を仕留める秋田県のまマタギたちが写し出される。さて、物語は関口平蔵は古来からの慣習を守る一徹な老マタギ(熊猟師)だ。彼には頬から顎に三メートルを超す巨熊と組み打ちになったときの傷跡が刻まれている。人々はそんな化け物がいるわけないと彼の話を信じない。それでも山神様は知っている。あいつは俺が撃つと彼は心に固く決めていた。

彼には孫がいる。太郎と言う名前である。家ではマタギの稼ぎだけで生活できる時代は終わった…と太郎の父親は農外収入を求めほとんど家を留守にしている。太郎にとっておじいちゃんはお父さんそのものであり、ほら吹き平蔵の噂に心を痛めながらも、無口で威厳のあるおじいちゃんを誇らしく思っていた。母親のいない太郎の家では、中学生の姉が家事を担当し、太郎の面倒を見ていた。愛犬のシロが五匹の子供を産む。子犬は牡の持主と山分けされ、太郎はー番チビをもらった。続いて、雪が野山を覆うたすぐ、牛がやられたと騒ぎ出す。ざっくり割れた傷口に人々は唖然としていた。トアト(足跡)を追う平蔵に、山は吹雪で苦しめる。結局巨熊を見つけ出すことができなかった。こうして春が訪れた。雪が溶けたら何になる、雪が溶けたら春になる…と言う小さい頃よく先生に言っていた僕自身の古い記憶が一瞬よみがえった瞬間であった。

ある日、愛犬シロが力尽きる。太郎は涙を流しながらおじいちゃんの言う通りに、犬に近づかず、犬の好きなようにさせてやった。犬がヨタヨタと森の中へと歩いて姿を消す。その後ろ姿を見守る太郎の姿がショットされる。目を痛めており、杖がわりの犬がいないと山に行けない平蔵を見て太郎は焦るが、チビが熊皮に牙を剥き出すようになり、それを見て平蔵の気持ちが動き、チビをマタギ犬に育てるための特訓が始まった。その壮絶な訓練に太郎はショックを受ける。血だらけのチビはよく耐えている。平蔵の目がこうして復活したのだ。夏が終わり、秋が深まってくる季節になる。再び熊猟の季節であり、あちこちで熊の被害が出始め、ついに村の娘が襲われる。娘の姿を見た母親は泣き崩れる。その娘の仇を打ってくれと平蔵に泣き叫びすがりつく母親のショットが映しだされる。平蔵は闇の奥にあいつの匂いをかぎ分けた表情をする。午前三時、亡き妻の写真に別れをつげ、平蔵は山へと出発した。山の雪は深まった。するとチビがしきりに後を気にする。太郎がついてきたのだ。危ないから帰れと言う平蔵に、太郎は叱られても叱られてもついてきた。ついに平蔵は太郎の同行を許す。

徐々に霧が出始め、吹雪に荒れる日が続く。そして嵐が止み霧の彼方からあいつはついに姿を現した。それまでに雪を掘ってカマクラを作り、焚き火をする。そして餅を食べたりした。ついに熊との戦いが始まる。一対ーで勝負に出る平蔵、しかしとどめの壱発が出ない。チビが猛烈に熊に向かっていく。鋭い爪がチビを空高く巻き上げる。チビの鳴き声が聞こえる。平蔵は何とかあいつを仕留めることに成功した。あいつは本当にいたことがここで判明したのだ。チビを手厚く葬りながら太郎はまぶしく平蔵を見つめる。真っ赤なチビの血が白い雪に飛び散っている。この獲物、山上様にかえすべしと平蔵は口を聞く。熊を雪で隠すのを太郎は泣きながら手伝っていた。この熊の死骸を人に見せたくなかったのである…とがっつり話すとこんな感じで、凄まじいほどの熊退治の執念をメラメラとさせた平蔵と落ちこぼれの孫との熊退治を描いた傑作である。



いゃ〜、久々に見返したが傑作にもほどがある。とんでもなく素晴らしい映画だ。これを見ないでズルズルと生きていくのは損である。しかし映画に字幕が欲しいほど秋田方言が強烈で、東京人である私にとっては理解できない言葉が多くある。それでも問題なく映画は楽しめるのだが、この映画自体がもはや作ることが不可能と先ほど言及したが、それはまず二つの理由がある。一つに動物愛護団体による監視によって、このような動物を殺して切り裂くような映画がまず撮るのに及び腰になる点と、このような映画を撮ろうとする作家がまずいなくなったのと、CGを使わずにここまでの臨場感とリアリティーを追求できる時代でなくなったからである。この映画は動物を殺すが、その反面動物が命を育む描写もきちんと映している(秋田犬の件)。

いちいちトリックが巧みであってすごい。例えば吹雪の中、雪を掘り、そこにかまくらを作り犬とおじいちゃんと孫が焚火をしてしのぐのだが、酸欠になり孫が気を失う場面で雪に積もりに穴を開けて空気を入れた途端に焚き火がもう一度復活する場面などすごいなと感じる。それと犬と熊が戦うシーンのスローモーションの痛々しい場面も強烈である。その他にも犬の芝居がすごい。とにかく本物の熊を使っている分、撮影がすごく緊張感あっただろうし、すごい試行錯誤したんだろうなと感じる。ラストで〇〇の死によってフラッシュバック的に過去が映るのが非常に胸にくる。山神様のところに返してやるんだと言う台詞を吐く祖父の姿が非常にかっこよかった。

それにしても主人公の平蔵は自分がいちど敗れた巨熊との再会をとことん願って静かな闘志を燃やしているかのような構えで生活しているのが画面から伝わってくる。生涯の思い出を果たすために時を待っていたのである。そうした中、出稼ぎで留守がちな父を持つ太郎(孫の少年)にとって、自分(平蔵)は身近にいてくれる父親代わりと言う存在を彼自身も孫も互いに理解しているかのように感じ取れる。実際に劇中でクラスの教員に立たされているときに、窓から父親が帰ってきたのを見かけて、外に走り抱きついて涙をする場面がある。それほど父親が恋しいと言うことである。そしておじいちゃんが見切りをつけた犬の子供(ちびちゃん)を見事自分一人(友達二人を含め)な猟犬に育ててゆく過程の優しさと丁寧さには涙するだろう。

そしていよいよ爺と孫はチビを連れて吹雪の山中に入っていく。そこから物語は過激さを増し、過酷な環境のもとで生きるか死ぬか(デッドオアライヴ)を観客に見せるのである。それまで吹雪のない秋田県の穏やかな街で繰り広げられる映像(風景)と違って、じいちゃんの理解者となるまでの太郎の転機を強調しているのが見てとれる。親子から子につなげていく仕事の尊さと厳しい現状を乗り越えるための知恵がじいちゃんのやること成す事(例えば、餅を焼くために必要な焚き火の起こし方、射撃の仕方等である)から目で学んで、実際に体験して身に付けていく太郎の成長がこの短期間に描かれている。これは非常に画期的なことである。まさに映画的であり、この映画的が非常に重要であるのだ。それは人間の忘れ去られた原点を経て回帰していく風景が映画的に作られているからである。

しかしながら劇中で年とともに体力が落ち、今年が限界と言う町の人々の声や、彼自身のギリギリの人生を熊との一騎打ちに持っていこうとする情念のようなものがすごい。それを孫の太郎の目を通して描いている点は非常に素晴らしいと思える。いかに人間の人間らしさは何かという問いをこの作品は我々に訴えている。人間性をより豊かにする事は何なのかと言う…まさに形象化である。特に少年の太郎がおじいさんの働く姿を通して成長していく姿を見ると、我々は死ぬまで成長したいなと思わされるのである。この作品は教育的にも素晴らしい題材だと思うので、ぜひ小さい頃から各ご家庭で見せるのをお勧めする。秋田にはこういった地域文化があってうらやましいなと正直思ってしまった。自分が生活している地域の中に本当に豊かな文化を作り出そうと言う責任が周りにあるのか、もちろん私にもあるのかと問われたら言葉に詰まる。

ところで、この物語の主人公の平蔵はしかり(またはすかり)と呼ばれる頭目の指揮のもと行動する伝統的な狩猟する人でありながら、犬を連れて単独で行動し、道具としては旧式の村田銃に三発の弾丸しか持たない変わり者という設定になっている。少しばかりこの伝統的な仕事について調べたのだが、マタギは東北地方の山間に伝統的な方法で十五人から二〇人ぐらいが一団となり行われるとのことである。本作を見ると少なからず自分のノスタルジックな子供時代を思い出す。誰だって小動物は子供の時は好きだろう。なので劇中で太郎が興奮して犬の赤ん坊を抱いたり、頬に擦りつけたりする場面を見るとほほえましくて仕方がない。そういった子供と子犬のエピソードを入れているおかげで、共感しやすい映画仕立てになっている。なので児童向けとしては成功したと思われる。

本作は古いしきたりを守り続ける意味を伝えてくれている。無論、子供が見る分にはそのメッセージ性はわからないと思うが、大人が見る分にはわかるだろう。実際に、劇中で平蔵が拳銃の弾を作っているシーンが何度か現れる。それはあえて最新式の外国製銃を使わずに旧式の村田銃を武器として巨大な熊と対峙することを表しているのと同時に、しきたりと文化と儀式を絶やすことなく現代に引き継ぐと言う事柄があるように感じたのは私だけではないだろう。近年、世界的にそういった文化破壊のような急進的な思想がはびこっており、非常に懸念する次第である。人間と自然と文明を垣間見れる貴重な映画として、この作品を多くの人に見てもらいたいとつくづく思うのである。

私がこの映画を見て素晴らしいと思った点は、まず動物と人間が対等な存在として描かれている点である。それはネタバレになるためあまり言いたくないが、クライマックスの出来事である。どんなに村の人々を怖がらせ殺してきた熊であろうとも、その熊の〇〇を晒し者にはしたりしないと言う…いわば"おくりびと"がなされているのである。ここには非常に感情移入することが人間の私が動物にできた。これほどまでに動物映画の本格的な幕開けと幕引きを見たことがなかった。この廃れてゆく伝統がなんともノスタルジックであり、はかなく何とも言えない気持ちになる。今現在ではマタギは過去の産物である。本作は秋田の人々の全面的なサポートによって非常に助けられたそうだ。なので大人を含め、とりわけ、秋田県出身の人(若者)でこの作品をまだ見ていない方はぜひとも見てほしい。

最後に余談だが、この秋田県に現れた熊は実際には北海道から連れてきたそうだ。日本映画では熊と言うのは撮れないためほとんど使われていないが、今回はそれに挑戦して全部実際の熊を使って撮影したため、非常に危険だったと後に監督が座談会で答えている。このような名作劇場を地上波などでぜひとも流してほしいものだ。しかしながら叶う事はないだろう…。この映画を見る前に山の掟、マタギの由来、マタギの奇習、慰霊の呪文、マタギの死生観、山言葉などを勉強してから見るのが良いかもしれない。あぁ、傑作。
Jeffrey

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