起立

サウダーヂの起立のネタバレレビュー・内容・結末

サウダーヂ(2011年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

それぞれの物語は基本的に淡々と進む。劇的な何かが日常を変えることはなく、激しい展開が用意されているわけでもない。しかし日常の描写は細部まで非常に丁寧である。日系ブラジル人家族が、日本の生活を嘆いてブラジルに帰国しようかと話し合う場面や、建設作業中に昆虫を見つけて盛り上がる場面や、主人公の猛がシャッター街を、現状への不満をリリックにして歌いながら歩く場面など、山梨という田舎における日常の喜びと悲しみが剥き出しのまま映し出されている。

重要なのはこの「剥き出しのままである」ということだ。映像の中には日常の中で無視される・あるいは見慣れてしまうもの、生存本能から不必要と判断し知覚をやめてしまうものの、本質的な美しさがある。本来物事のありのままの姿というのは美しいものだが、人間は成長の過程でその美しさを感じ取ることを止めてしまう。子供の頃に見たものが何でも美しかったと感じられるのは、物事の本質美を正面から感じ取っていたためではないだろうか。本作は日常を細部まで丁寧に描くことで、本来忘れがちであった物事の本質そのものを浮き彫りにしている。確かにそれは新鮮味には欠けるかもしれない。交わされるやりとりはすべてありきたりで、ステレオタイプの地獄でさえあるかもしれない。それでもなぜか本作には美しく感度的なシーンがあったと感じてしまう理由は、物事の本来の美しさに触れたためではないだろうか。本来誰もが知っているものの中に、美しさが存在するということを本作は映像を以て証明している。

次に、本作で描かれる貧しさについて言及する。山梨の甲府は都会に住む人々から見ると甚だ閉鎖的で、多様性とは無縁の社会である。住民は視野が狭く、周囲の人間の身辺話を娯楽のひとつとして生きている。娯楽は少なく、町全体の風通しは悪い。子供があまり映らないことからも、この町の建設的な未来は想像し難い。特に前半のある程度の時間までは、映像からはこの町で生活する利点が見出しにくい。
しかし後半になると、度々町民にとって心の癒しとなっているだろうシーンが映る。主人公の猛がまひると心を通わせて世界について話す場面や、それまでやや不仲気味であった堀夫婦が、パーティーに参加するための服装の話で盛り上がる場面は、本作における感動的なシーンである。この心の通い合いは非常に類型的ではあるが、上述の通りそこには美しさがある。そしてそれは登場人物自身らにとっても幸福な時間であるだろう。ただ貧しいという事が、不幸に直結しておらず、むしろ貧しさの中にあってこそ、心の交流の美しさが引き立っている。このシーンは貧しいということについて、改めて我々に考えさせる場面である。

また撮影手法による観客の視点誘導も興味深い。映像の中に映るのは、町から出ていった人間ではなく、町で生きている人間である。作品内での象徴的な台詞として「この町ももう終わりだな」が挙げられるが、そう言いながらも登場人物が町を出て行くシーンは見受けられない。シーンが切り替わると、やはり町で生きていく人々が映る。徹底して町の外を映さない撮影手法からは、町の中だけで作品世界を完結しようとする意図が感じられる。また俯瞰的な視点での映像が少ないことからも同様のことが言える。それはどこまでも町民の様子を町民と同じ目線でカメラにおさめることで、観客の視点を固定する効果を持っている。撮影手法によって観客は山梨の甲府という、ほぼ断絶されている世界で、登場人物たちに寄り添わざるを得ない立場を取られている。

では作品は全くの断絶性で完成しているかというと、一概にそうとは言い難い。むしろ作品世界は一見関連性のないものが、断片的に散りばめられることによって、断絶的に見える仕組みになっている。タイトルもその一環である。サウダーヂという言葉は本来ポルトガル語で郷愁、あるいは追い求めても叶わないもの、という意味である。何が「求めても叶わない」ように描かれているのか、作中では明示されない。むしろ山王団地という地元に馴染み深い言葉と似ていることの方が重要である。それは一見断絶されたものが、予期せぬかたちをとって無関係のものと繋がることを表している。日本から実質的な距離も遠く、政治的な関わりも少ないため話題にもなりにくいブラジル(ポルトガル)の言葉「サウダーヂ」が、作中で「山王団地」に結び付けられることによって、鮮やかにもタイトルに奥行きを持たせた。そういった意味で本作は、断絶が孤独ではないことの証明をしているとも言える。筆者はここに本作の真髄が表れていると考える。

例えば作中後半で精司と保坂が、水パイプを吸うシーンがある。二人の周囲で栽培されている植物が大麻であることは間違いなく、状況からみても恐らく二人は大麻を摂取していると推測できる。そして徐に、会話の中で精司が土の冷たさを話題にする。土は掘れば掘るほど冷たさを増していくと言う。保坂はその話から展開して、地面を掘っていけば日本はブラジルに繋がっている、少し曲がればタイにも繋がっている、と話す。作品前半では無関係であった日本とブラジル、そしてタイが土を通じて結びつけられる。ここもまた断絶が繋がりをもつ瞬間である。
そして大麻で興奮状態にある中で、土の冷たさを話題にすることは、どう捉えるべきなのか。このワンシーンだけを切り取って他者に見せた時、土の冷たさを話題にすることは興奮状態にあるからだと考えることもできる。しかし物語を通じて最初から精司を観てきている観客にとっては、精司は至って普段通りの会話をしているようにも捉えられる。普段から軽々しい保坂の様子と相まって、水パイプの中身は大麻であると一概に決定することを困難にしている。
ただ確実に言えることとして精司が感じた土の冷たさは、断絶的ではないということである。日本のどの場所においても土は下に掘れば掘るほど冷たく感じられる。生活から自然発生した思考や本質は、作品世界の断絶に影響されることはなく、私たちにも共有される。ここにも断絶が繋がりを持つことで、単なる閉じられた世界に終わらない、本作の奥深さを見ることができる。本作はステレオタイプの地獄から見える物事の本質的な美しさと、孤独のままに終わらない断絶性を表現した作品である。


提出したレポートが残っていたのでそのまま記録にしてみた。普段はここまで丁寧に書かないけどたまにはいいよね。
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