レオピン

キューポラのある街のレオピンのレビュー・感想・評価

キューポラのある街(1962年製作の映画)
3.5
舞台は1962年(昭和37年)の埼玉県川口、鋳物工場の煙突”キューポラ”が印象的な街。

町に暮らす貧しい一家。父は長年勤めた工場をリストラに遭い、母は飲み屋へ働きに出るようになる。中学三年生の娘ジュン(吉永小百合)は進学のことで悩んでいた。彼女はソフトボールでも大活躍し、友人からは数学を教えて欲しいとせがまれるような文武両道のかしこ。

だが家の経済事情から修学旅行へ行くことすら諦めなければならない。旅行へ参加しようか悩んでいた時、鉄橋の下で初潮を迎えるシーンがある。大人になった。ちょっと古さを感じさせる描写だが、その直後に悪友に誘われたことである受難をする。生理⇒SEX⇒非行という大変分かりやすい図式だ。

いろいろあってジュンは県立高校へは進まずに働きながら定時制高校へ通うことに決めた。
「ダボハゼの子どもはダボハゼだ!」という父(東野英治郎)に向かって私はダボハゼにはならないっ!と叫ぶ。
父は工場への復職が決まって勝手に感激しているが、そんな父の背中に向かって自分は誰にも頼らないで生きていきたいと決意を述べるジュンだった。

時を同じくして、級友の早苗ちゃん(三吉の姉)の一家はいよいよ父の故郷である北朝鮮へ渡ることとなった。
見送りの人々の中に母(菅井きん)も姿を見せるが、娘に来ないという約束だったはずよと拒絶される。こんな別れが当たり前のようにあったのだろう。

早苗ちゃんからの手紙には、パチンコ屋でアルバイトしていた頃が一番楽しかったと書かれてあった。いろいろ苦しいことがあった、それをあなたともっと話したかった、と。

そして、一度は戻ってきてしまった三ちゃんをもう一度送りだす。陸橋から手を振ってさよならーと別れを告げるところで映画は終わる。


人間同士のつながりが今よりもずっと濃かった時代。だからこそ彼らの別れが切なくも美しい。
自己責任が内面化し社会は分断されつくした観のある今からすると、どちらがよかったのだろう。

そうだ、もしこの映画が『帰国事業』などというまやかしを描かず、ただ友達と別れる、という物語だったらどうなっていたろう。だがきっとそれでは作品は成り立たない。やはり監督はじめ、この映画の核には社会主義への強い信念と賞賛があったのだろう。

「一人ではなくみんな。仲間と語ろう」
こういったメッセージが観客にもそれほど疑いなく、すんなり人々に受け入れられた時代。

やっぱり、まだ社会主義の理想がはっきりと信じられた時代だ。
「一人が五歩進むより、十人が一歩進む方がいい」
劇中のセリフにまで登場するこうした信念にはややたじろがされる。

理想の時代。要はソ連や北朝鮮が楽園だと本気で信じられていたってことだ。滑稽なのは、その理想に裏切られたことをなかったことにしようとする人達がいること。

この帰国船で還っていった多くの在日朝鮮人やその妻(日本人妻)たちに一体どのような運命が待ち構えていたのか。いかに惨い結果が待っていたか。船からその故国を目にした瞬間、あるものは全てを悟った。全部ウソだった、と。
こんな事、もうとっくに明らかになっている。総連やマスコミが結託して扇動したことの罪はほとんど語られないままだ。

そういえば、ジュンが進学することになった夜間高校もあれはきっと労働学校だろう。あのまま行けば間違いなく「主体思想」の手ほどきを受け北のエージェントにさせられてしまっただろう。そして、70年代に入って本格的に始まる日本人拉致の工作員として、またはよど号妻として大いに活躍したに違いない。
この映画を見ても、彼女がそれほど危ういところにいたのだとまでは到底気づかない。本当はそこが一番怖いんよ。

残念ながら時代によって評価が変わってしまった作品かな。でも映画が悪いわけじゃない。
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