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秋日和のotomisanのレビュー・感想・評価

秋日和(1960年製作の映画)
4.3
 ひとり居となる母親を慮って娘は結婚を先延ばしに捉える。その娘ももう24だそうで、周囲の者がざわめきだす。すなわち、アヤ子君(娘)は秋子さん(母)が大学の寮友三輪に嫁いだ齢よりもう上にいってるんだ、という事で、四半世紀前、彼女(秋子)見たさにその実家の薬局に通い、ひいてもいない風邪の薬をのべつ買っていたことが思い出される。

 そんな男ども三人のいわばフラれた思い出の焼け木杭に火が着いて、今度はアヤ子に結婚を奨めようとなる。それは三輪の馬鹿たれがあのとき散々後押ししてやったのにあっさり死んじまいやがって、これでもう七回忌なのか、という事でもあろう。
 その後の浅慮妄動は彼等、五十も手に届こうという男どもがアヤ子を巡って脳みそが四半世紀バカ返ったという事である。
 しかし、ならばアヤ子の重い腰につながった母、秋子をどうしようか、これも再婚させれば問題なし。一つの戦略で一挙両得、男の好む展望だ。しかも秋子も周知なこの三人の中にやもめがいるではないか。こうした場合、三輪が選ばれた理由があっただろう一方、三人が選ばれなかった理由はパスされやすい。
 ついでながら、駆け出す男どもに細君らが付いてこない辺りにも彼等のその後の脱線の理由があるだろう。四半世紀前の風邪薬の効き貯めのせいで未だに風邪をひかないと突っ込まれて妻のご機嫌が知れたろうか?

 バタフライエフェクトは何も地球の反対側から及ぶとは限らない。男どもが知らぬ間に母の再婚話にこころを乱したアヤ子がプチ家出して逃げ込んだ先、友人ユリコからは意外の不同意を被って、案外向かう先が佐分利おすすめの佐田であるなら失敗学にも深みが増すだろう。
 この失敗論はダイナミックで三輪の母娘を気遣った江戸っ娘ユリコの三オジへの殴り込みにあっさり降参したオジ共が、なるほど時代は変わったなー、と詠嘆し、こいつに任せとけば出る幕なしかと思わされる。ひっぱり込まれた寿司屋がユリコの実家と知らされてまた一杯食わされたわけだが、或いはこれに味を占めてこの変なヤツに、も一度遊ばれたいと思うかもしれない。幸い佐分利の娘の事もありオヤジの夢はなかなか尽きない。

 このようにトリックスターが駆け抜けてなんとなく収まってしまう格好だが、目くらましの隅で秋子はやはり独りを通すという。やはりな、と皆思うのだろう。小津だもんな。
 しかし、婚儀も済み賑やかなユリコも去り、灯りを落して、袢纏を畳む手が静かに閉じると小さくなった自分が分かる。アヤ子がいる事で感じられた亡き夫が今、一層小さく霞む。ひとり居のこの部屋、その先はひと気の絶えた深夜の回廊、わたしというこれは牢獄ではないか?錠などおりていないのに、このそぞろさをあらためて憂い、問いは巡る。せめてアヤ子が自分と同じく子を持つまで、心中の夫とアヤ子を養えはしないか、そのように生きて来た7年の余韻をあとどれだけ温められるだろう。
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