夏藤涼太

1999年の夏休みの夏藤涼太のレビュー・感想・評価

1999年の夏休み(1988年製作の映画)
4.3
『ゴールデン・ボーイ』を見る前に見返した。

やはり、唯一無二の名作でした。
唯一無二。故に古びない。
金子修介、やはり凄い映画監督だ。個人的なベストは『ガメラ3』だが、本作も外せまい。

演劇的なセリフ回しや演技、5人だけの登場人物、耽美系少女漫画――いやJUNE的なドロドロラブストーリー、そして何より、美少女によって演じられる美少年たち。
まさに、映画版宝塚。

原作ファンはもちろん、全宝塚ファン、耽美系少女漫画・BLファンは皆見るべき隠れた名作邦画である。
いや、主要人物のうち3人は吹き替えられてる上に、1人は男性声優が吹き替えをしてるので、宝塚よりねじれているか……

あの『トーマの心臓』を実写化するというだけでもハードルが高いのに、舞台を日本にするなんて、普通に考えたら絶対無理……なのだが、そこは鬼才、金子修介。
(上映当時にとっての)近未来にすることで、SFの趣もある、悪く言えばヘンテコな……一種の幻想世界を作り上げ、見事、日本実写版『トーマの心臓』の映像を作り上げたのである。

というのも、萩尾望都がドイツのギムナジウムを日本人読者にとっての一種の非現実的かつ理想的な"幻想(少年愛)世界"を創造したのと、同様のアプローチだと言えるからだ。

いやむしろ、現実の世界であるのに、唯一無二の、理想的・非現実的な幻想(少年愛)世界を作りあげる手腕に関しては、本映画の方が優れているかもしれない。

大人が登場しない、子役四人だけの世界。舞台
も、寮とその周辺の林(あと謎の無人電車と駅舎)だけ。それも、外装はギリシア風、内装はヨーロッパ、コンピューターなどのテクノロジーはSF風、自然は日本(北海道?)と……設定上は日本かもしれないが、本作の世界は、原作以上に幻想世界・異世界感にあふれている。

そう考えると、役者と登場人物の性別が違うことや、実写アフレコによる違和感も、一種の非現実感を演出することに成功しているのかもしれない。

ここまで独特かつ唯一無二の、浮遊感のある"非現実的な幻想世界"を作り上げられてしまうと、まるで、ラストのセリフにあるように、この四人以外全員の人類が絶滅してしまったかのような、不気味な錯覚さえ覚えてしまうほど。

映画冒頭には、他の生徒たちの音声は入っているので、そんなことはないはずだが……
設定上の違和感(ディストピア的な配給制)や、樹々がはびこる無人の駅舎にある原子力マークとか(和彦の両親が死んだ発電所の事故というのも、あるいは)を見ると、案外妄想とは言えないのかもしれない。

なにしろ、タイトルは1999年の夏休み。
それは世界の終わりの7月のことで、88年当時の人々が夢見た、ある種の、無想としての世紀末――永遠の"1999年の夏休み"を表しているという解釈は、それほど考えすぎでもないだろう。
(なお金子修介はその後、リアル世紀末の頃に『ガメラ3』でも最高の終末を描くことになる)

ナレーションを信じれば、永遠ではないのだろうけれど、映画自体はループ構造を持っているし、ラストの悠(薫)のセリフが少年時代の繰り返しを示唆するように、彼らはこれからずっと、少しだけ違う、"1999年の夏休み"を繰り返すのかもしれない。

トーマの心臓を日本で成立させようとした結果、唯一無二の、幻想的な無国籍ファンタジー映画が誕生した。
故に、古びず、今見ても新鮮に見られるのだろう。きっと、どこの国の人が見ても。

……というのが、個人的な見方である。
これが狙ってのことなのか、偶然の産物なのかは、不明だが。

しかし本当に、金子修介はボーイッシュな美少女を撮る天才だと再認識した。あと、隠しきれない太ももへの性癖。

そして何より、本当に風景描写が美しい。ヨーロッパ風の寄宿舎、白樺の林と湖、夏のセミと満月の夜、光と影のコントラスト……そしてそれらの映像を彩る、中村由利子の美しいピアノの旋律。
これらは四人の役者に負けない、この映画の立派な主役である。
これもまた、人間を包み込む自然を描き続けてきたアニミズム精神のある、邦画ならではの映像世界だと言えるだろう。
夏藤涼太

夏藤涼太