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女優須磨子の恋のIMAOのレビュー・感想・評価

女優須磨子の恋(1947年製作の映画)
3.8
実在の女優・松井須磨子と、その夫となる舞台監督・島村抱月との人生を描いた溝口健二1947年の作品。

日本映画の巨匠というと黒澤、溝口、成瀬と言われることが多いが、この中で黒澤も溝口は個人的にはあまり好きになれないでいた。溝口の後期作品では徹底したワンシーン・ワンショットが多様され、それが彼のスタイルとなっていたが、僕は彼のスタイルが「格好良すぎて」嫌いなのだと思う。自らのスタイルがある人は凄いと思うが、それが見えすぎると鼻につく。でももちろん、優れた演出力があるのは間違いなく『近松物語』などは彼の作品の中ではかなり好きな作品。とは言っても、数ある溝口の作品の中で僕はまだ13本くらいしか観ていない。まだまだ勉強しないといけないな、と反省した次第。

それはともかく、この映画の最大の魅力はやはり主演の田中絹代だと思う。溝口は田中を何回も起用していて、田中自身も「映画の中では溝口先生とは夫婦」と公言していたくらいだった。その関係性がそのままこの映画にも反映されている、というはあり来たりな見解かもしれないが、ある種の真実も含んでいるだろう。

この映画の中で一番感動したシーンがある。夫・島村が亡くなり、その葬儀のシーンで佇む田中絹代演じる須磨子の後姿だ。ここは台詞はないが、彼女の後姿を見ただけで、その悲しみがなぜか伝わってくる。何が違うのだろう?多分ほんの些細な仕草やメイクや立ち方かもしれないが、その「些細な」違いこそが、本物の女優たる田中絹代を証明している様に僕には思えた。多分、あの仕草を出来る人は、本当にごく一握りの俳優しかいないだろう。

色々な仕事があるが、俳優ほど才能を必要とする商売もないだろう。彼らはある種のスポーツ選手よりも難しいことをしているのだと思う。スポーツなら、あんな難しいことは私には出来ない、と誰しも思うだろう。でも俳優は、日常のごくありきたりな仕草を演じたりしなくてはいけないことがある。それだけに「簡単そう」に見えたりする。でも実は泣いたり笑ったりするよりも、そうした些細な仕草ほど難しいと思う。なにしろそうした日常の動作は誰しもが見慣れたモノだけに、すぐに嘘がバレてしまうからだ。そうした仕草を再現するためには訓練も必要だろう。でもそれにはまず資質(才能)が必要だ。それはマラソン選手には遅筋繊維が、短距離選手には速筋繊維が多く必要なのと似ているかもしれない。どんなに早く走りたくても、マラソン選手は短距離選手にはなれないし、逆に短距離選手はマラソン選手にはなれない。そもそも素質(筋肉の質)が違うのだから、そうした資質がない人はスタート地点にすら立てない。
本当の才能が本当に努力をした上で獲得した「芸」こそが、本物の演技だ。だからこそ、優れた演技というのは感動を生むし、我々の記憶に残り続けるのだと思う。
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