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悲愁物語のmasatのレビュー・感想・評価

悲愁物語(1977年製作の映画)
2.5
独特・・・こんな映画、創れない。そんな一点において、とてつもない塊、だった。しかし、その独特さを許容出来る見方、捻くれた愉しみを知らずんば、無用の産物。

これは、呪われた映画人の“暗号”なのではないか。

しかし、極まってない、とても極みとは思えないこの中途半端感が、また魅力なのだろうか?
確かに、カメラのアングル、繋ぎ、環境音を突如オフにする音響設計全般・・・わざと嫌がらせをされているかの様だ。当時の松竹の重役陣の顔色が窺える。
それは、この監督の積年の恨みが感じられるほど、だ。
そう、嫌がらせ。
反面、自分の外連味を待ち侘びていた特殊人種に向かっての“暗号”の様なラヴレターなのだ。

この監督の“経緯”、映画史での人生を知り、さらに2024年の今、観るのが面白い代物。
公開当時に観ていたら、さぞかし詰まらなかっただろう。
映画は生き物、その時代に応じて、変化してしまうから堪らない。時を超えて、多面的な観方が出来る、特殊映画。

『殺しの烙印』(67)から10年だ。
10年、アパートの中で、鬱屈して生活を送っていた。その精神が画面を覆っている。
あっけらかんとした呪い、清順外連。
しかし、その10年の間に一本だけ、“入定のジョー介”を炸裂させるのだから恐ろしい。まさにこの呪いと笑いの異様なる一本を経由して、ここに本作を創り、ウォーミングアップを完了させ、いよいよ最期の80年代に突入するのだから、映画に翻弄されながら“かつてないモノ”を産み出そうとする瞬間は、興奮以外の何物でもない。
人間って、時に未知、であります。

この後期・清順を背負い、後に、後期・若松孝二自らの投影を背負った原田芳雄は、なんとも凄まじい役者だった。
また、江波杏子の溢れる凄まじさに、ヒロインは当然のこと、原田すら放ったらかす清順の大人気なさも笑える。

また、ときに映し出される高度経済成長期のどこか寂しい風景が、ホント重い。
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