このレビューはネタバレを含みます
宗教上できないことがあるということは、物語においては好都合だ。事実を教典に誓って話すことができない何てお誂え向きだ。
物語はある夫婦の離婚問題から始まる。
夫の父親は病によって言葉も話せない。妻はそんな父親を差し置いて、娘にまともな教育を受けさせるために外国へ旅立とうとする。だが、現実問題病気の父親を置いて、あるいは一緒に海外に出るなど出来ないのは明白だ。しかし、海外に行かないのなら離婚だと妻は詰め寄る。
そもそもこの物語の本質的な根幹はここにある。
出ていった妻に代わり日中父親の面倒を見てもらうために、夫は介助者を雇う。その女は旦那に本当のことを話せず、仕事をしていることを黙っていた。
ある日帰宅した夫と娘は、介助者の女が不在なことに気がつく。また、ベッドに腕を縛り付けられて床に伏す父親を目撃する。
この異常事態を尻目に、女は外出先からシレッと帰宅する。問い詰めると「こうするより他になかった!」と騒ぎ立てる。
夫は女に対し、ベッドに縛り付けたことを責め立て、金を盗んだだろうと言って家から追い出す。
しかし、女は金は盗んでいない、謝れと詰め寄る。
普通に考えると意味不明な状況なのだが、彼女が敬虔な宗教者だということを踏まえると少しだけ事情が変わる。
つまり物語の最後まで宙ぶらりんになるこの窃盗事件が、男の勘違いか追い出すための口実だとしたら、「金を盗んだこと」自体に詰め寄っているこの状況は必然なのだ。
なぜなら、彼女はコーランに誓って盗みなど出来ないからだ。
また、追い出されたまま黙っていれば、盗んだことを認めてしまい、教典に背くことになる。
ここに非常に重要な齟齬がある。
本来論点は父親を縛り付け、虐待し、放置したことにあるのに、女は盗みにのみ焦点を当ててしまうのだ。
そして、無理矢理追い出された際に階段で躓く。
女は妊娠しており、流産してしまう。
ここで次の問題、流産の原因は何かという命題にぶつかる。しかし、この問題も結局なぜ縛り付ける必要があったのかという本質的な理由の回答が得られれば、解決したはずなのだ。
つまり、父親が外出し徘徊してしまった際に、交通事故に合いそうになった父親を庇うために女が身代わりになって助けたという隠された事実だ。
おそらく、その際に胎児に深刻な影響を受ける。また、その検査のために男の父親を置いて、病院に行ってしまう。
この隠された事実を詳らかにすれば、話はシンプルだったはずだ。だが、事件の本質は次々とズレていく。
事情はあるかもしれんが、事実を言わないからこんがらがる。しかも結局大問題になった後に失笑される。「言えよ」と。
さて、厄介ないざこざに巻き込まれた夫婦だが、最後に自分たちの問題にぶち当たる。
娘の親権だ。
ここにもまた、本質からズレた理論が存在する。学校へ通うために海外に出ることを選ぶのは母親ではない。娘にある。
そして、娘の親権も選択肢は母親ではなく、勿論父親でもなく娘にあり、その判断や裁量の一切を迫られる。
これは言うまでもなく、父か母かではなく、いずれかを選ぶか否かという問題となる。
彼女は裁判の前に答えを決めている。
だが両親を外に出させ、結論を伝える。彼女は笑いながらその結論を口にしようとする。
答えは「別離」
別れて離れ離れになることを望んではいない。そして、娘が残るのであれば、母親が海外に出る必要はない。
ここにも雑音に紛らわされて、見えなくなっている本質がある。母親の想いだけでなく、彼女にも海外に出るか否かの選択肢があったのだ。
そして、それが父親の意向で叶わないこと、母親が戻ると言ったらそれで構わないと思ったことを繋ぎ合わせれば答えはシンプルだ。