レインウォッチャー

プリティ・ウーマンのレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

プリティ・ウーマン(1990年製作の映画)
3.5
ここ数年、定期的に「ごはんは男が奢るべきか」「初デートでサイゼはアリか」みたいな類の論争が浮上してる気がするのだけれど、あれって「『プリティ・ウーマン』観なはれ」で即終了する話じゃあないんでしょうか。

要するに、女がヴィヴィアン(J・ロバーツ)なら男は損得なんて忘れて奢ろうとするだろうし、男がエドワード(R・ギア)なら奢られ続けずとも女は別の魅力を見つけるだろう、ってことなのだけれど。
これは性別が逆でも同じだし、なにも美と金の天秤がすべてという話でもない。おそらく《愛》なるものには「きっかけ」が必要で、それを引き寄せるには努力とか思いやりが必要であり、相手にそれを求めるより自分の振る舞いを変えて理解しようと試みる方がずっと早い(し楽しい)はず、ということなのだ。

街娼ヴィヴィアンと買収屋エドワードの始まりは、確かに気まぐれ、あるいは金払いの良さからだったかもしれない。しかし、2人は一緒に過ごすうち徐々に互いの傷に触れあって、理解し、人間そのものに惹かれていく。
この工程の後ならば、きっとデート先はサイゼリヤだろうがリッツカールトンだろうが構わないだろう。ヴィヴィアンがエドワードに仕事をサボらせた、あのハピネスな休日デートシーンを見てほしい。

ともすれば、今作は「金持ちの王子様が庶民の女の子を買ってお人形扱いする話」として、ゲンダイテキな目で観ればまあ華やかだけれど石器時代のラブコメと評されがちだ。しかし、それは甚だ勿体ないと思ったりもする。
上に書いたようなことに加えて、これはヴィヴィアンの所謂シンデレラストーリー(※1)である以上にエドワードの成長譚でもあるからだ。

金は余るほど持っていても血の通った使い方を知らなかった男が、物語を通して反省し、人間の中身を見つめられるようになる。
彼は何不自由ない成功者に見えるけれど、どこか空虚であり、何よりコドモだ。それは機械音痴や高所恐怖症といったパーソナリティに現れているほか、彼が金で金を買うような仕事を続けるのは父親への当てつけ(反抗)に近いことが描かれる。

おそらく、彼自身が直視することを避けていた内面の傷であり、重要なのはヴィヴィアンとの対話を通して自然とこのことが引き出され、気付くということ。結果、彼は行動を変えて、ある商談を思いもしなかった着地点に導くことになる。
一人ではできなかったことが、一緒だとできるようになる。これ以上、「誰かと共に時間を過ごす」ことの意味があるだろうか。

男も女も、誰かを攻撃するための持論をネットに書き込む時間を『プリティ・ウーマン』に使ったほうがずっと良い。彼が、彼女がその場に座っている理由に気付くかもしれないし…この映画が次の「きっかけ」にならないとも限らない。

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なんだかんだ、ロバーツ&ギアのほとばしるスターオーラには脱帽。
しかし一番のイケメンは、あの粋なホテル支配人のおじさん(H・エリゾンド)だよなあ。

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※1:実は、今作にこの形容は当てはまらないんじゃ?と思ってる。なぜなら、ヴィヴィアンは王子様と結婚してめでたしめでたし、じゃあなくて、自分の本当にやりたいことを見つけ直すからだ。