鍋山和弥

宮本武蔵 一乗寺の決斗の鍋山和弥のネタバレレビュー・内容・結末

宮本武蔵 一乗寺の決斗(1964年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

この作品は、前作で、『吉岡清十郎』を、破った『宮本武蔵』と、報復する、『吉岡一門』の、対決の様子を、描いた作品。この作品の、ラストで、『吉岡一門』は、決闘のため、まだ、子供の、『吉岡源十郎』を、名代に、立て、73名あまりで、『宮本武蔵』1人に、挑み、『宮本武蔵』は、まだ、幼い、『吉岡源十郎』を、斬り捨て、それが、元で、坊主達に、非難されるが、これは、どっちもどっちだろう。『吉岡一門』は、まだ、子供の、『吉岡源十郎』を、名代に、立てたのが、そもそもの間違い。理由は、この決闘は、殺し合いの場。斬り捨てられても、文句は言えないし、そもそも、人が、斬られる所を、幼い子供に、間近で、見せるべきではない。例え、『吉岡源十郎』が、生き残ったにしても、『吉岡源十郎』には、斬り殺された者達の様子が、トラウマになって、フラッシュバックしてしまうだろうし、そのトラウマは、なかなか消えない。武士かどうかでなく、幼い子供が、大勢の人が、斬り殺されるのを、目の当たりにするのだ。子供のことを、考えるなら避けるべきだし、理由も、果たし合いで負けたことで、潰れた、『吉岡一門』のメンツを、保つため。子供に、斬殺の場を、見せてまで、やる程の、理由ではない。道場のメンツという理由では、弱いはず。一方、『宮本武蔵』の方だが、『宮本武蔵』は、子供を、斬殺したのだが、他の、門弟達は、『吉岡源十郎』斬殺後も、『宮本武蔵』を、斬り殺そうとした。無駄な殺生を、避けることにもなってないし、そもそも、幼い子供を、斬殺するのは、弱い者を狙った、卑怯者。子供に、罪はないのだ。殺さず、制するべきだった。『吉岡源十郎』に、『参った!!』と言わせれば、十分。その瞬間、門弟達も、仮にも武士。斬り殺そうとは、しないはず。仮に、その危険が、あっても、『吉岡源十郎』を、人質に、この場を、切り抜けるという選択肢もあった。子供を、斬り捨てて、いいことには、ならない。故に、どっちもどっちだ。だが、どちらが、武士らしいかと、問われれば、『宮本武蔵』だろう。73人の、門弟を相手に、斬り合ったのだから。そもそも、メンツを理由に、幼い『吉岡源十郎』を、名代に立てるべきじゃなかったのだ。むしろ、メンツに、拘り過ぎて、見苦しい。まあ、ここは、僕は、そう思う。あとは、『宮本武蔵』の剣に関する所だが、『宮本武蔵』と、とある芸者の対話シーンに、こんなセリフがある。『堅く張り詰め、緩みがない』これは、納得だ。スポーツにおいて、全力を、出すには、力み過ぎは、良くない。かえって、体が、堅くなってしまう。スポーツで、ポテンシャルを、発揮するには、リラックスが、必要だ。緩みとは、そういうこと。堅く張り詰めては、かえって、脆くも、崩れさる。この事を知り、『宮本武蔵』の剣は、『柔』を、覚えた。全力を、出すには、自然体でいることが、重要だ。つまり、無駄な力を、抜くということだ。この事は、『宮本武蔵』が、いかに、豪剣だけで、勝利してきたか、分かるセリフでもある。本来のポテンシャルを、発揮してない状態で、『吉岡一門』に、勝利してきたのだ。ここは、『宮本武蔵』を、褒めるしかない。要は、剣とは、『豪』と『柔』、相反する、両方の側面が、必要なのだ。やはり、剣の道とは、奥が、深い。
鍋山和弥

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