くまちゃん

エスターのくまちゃんのネタバレレビュー・内容・結末

エスター(2009年製作の映画)
4.2

このレビューはネタバレを含みます

今作はジャウム・コレット=セラ監督のテクニカルなサスペンス構成によって、観客の緊張を牽引している。
ひとえに監督の手腕による所が大きいのは事実だが、イザベル・ファーマンの年齢に不釣り合いなエキゾチックな妖艶さが物語のオカルティズムを増幅している。
始めこそは死産を経験した女性とその家族の再生物語かと感じるが、それは最悪の序章に過ぎない。

死産の悪夢を見るケイト。冒頭ながら非常に多くの情報がここに集約している。
光に包まれ病院を訪れるコールマン夫婦。異様に強調される光、対称的に暗い病院内、どこか冷たい看護師、これはもしや夢なのではないかと勘の良い者なら気がつくだろう。
さらにケイトと看護師の会話からこれは3人目の妊娠であることが明かされる。
「ジェシカ」と名付けるつもりだと嬉々として語るケイト。
まだ見ぬ我が子を3人目にも関わらずこれほど喜べるのはケイトの愛情深さと感受性豊かな性格を物語る。
出血と淡々とした医師の対応からその子は生まれることはなかったのだと観客は知る。
流産がいつのことなのかはわからないが、確実にケイトの心を蝕んでいる。天使のような子が生まれることを望んでいたはずなのに、夢では血塗れの悪魔の子なのだ。そしてその悪夢は現実となる。「ジェシカ」ではない、「エスター」と名を変えて。

ダニエルはエスターがやって来たことを快く思っていなかった。
父に甘え、母には適度に淡白で、妹をそれなりに可愛がっている。典型的な年頃の少年というイメージが強い。
だが妹のマックスは難聴を患い手話と読唇補助のための補聴器でコミュニケーションをとらなければならない。ケイトとジョンは娘が聴覚障害と診断された当初、相当な苦労があったと想像できる。
夫婦でマックスにつきっきりになり、必死で手話を覚え、マックスの非言語情報を一つでも多く理解しようと努めたはずだ。その間ダニエルはどうしたのか?
両親にかまってもらえず寂しい時間を過ごしたのではないか?
この環境になれた今では家族にゆとりがある。ジョンもケイトもダニエルに愛情をもって接する。だからこそケイトの質問に対しても「普通」と素っ気なく応えることができる。思春期特有の照れ隠しのようなものだ。これはダニエルなりの甘えである。
しかし、エスターの存在がダニエルの寂寥感を呼び覚ます。
エスターは早々と手話を会得し韋駄天の如く俊足ををもってマックスとの心理的距離をつめてくる。
新しい家族に気を遣うジョンとケイト。そこにマックスも加わり、ダニエルの孤独は増幅される。それがエスターへの否定や反抗、嫌がらせへと言動に現れる。
それは遊びに対しても同様だ。ツリーハウスに隠したアダルト雑誌やペイント弾での射撃といった部分にダニエルの満たされぬ欲求や向けどころのわからない暴力衝動が垣間見える。倫理と背徳の間で刹那の葛藤を覚えた少年は欲望のまま鳩を狙撃する。
瀕死の鳩を見下ろしながら慙愧の念に暮れるダニエル。痙攣する小さい命を目の当たりにして背徳は霧散し、倫理が罪悪感を引き連れその双肩にのしかかる。
さらにその現場をエスターとマックスに目撃される。
後悔するダニエルにさらなる追い討ちをかけたのはエスターだ。
鳩の苦しみを長引かせるか、ケジメとしてその手で苦しみを断つか。
軽い気持ちのイタズラが子供には重すぎる命題へと変容する。
ダニエルはその後もエスターに脅され、ツリーハウスごと焼かれ、入院すれば窒息させられ、散々な目に遭う。
相手は子供の皮を被った大人。普通の子供が太刀打ちできるはずがなかった。
ダニエルを演じたジミー・ベネットは
ダリオ・アルジェントの娘で「MeToo運動」の中心人物だったアーシア・アルジェントに2013年性的暴行を受けたと告訴している。
映画内でもプライベートなリアルでも女性の暴力に晒されたダニエル(ジミー・ベネット)を思うととてつもなく胸が締め付けられる。

エスターは自分をいじめる同級生を遊具から突き落とす。
鳩を潰した以外、大きく目立った動きを見せなかったエスター。
それでも不気味なのはそのカメラワークとカット割りにある。こちらを睨めつけるエスター。一瞬目を離した隙にその視界から完全に消え失せる。恐る恐る遊具を登りあちこち見て回るが誰もいない。周囲では遊ぶ子供の声だけがノイズのようにざらついて聞こえる。それが少女が独りであることを強調し、次の瞬間には突き落とされる。
遊具の下にはマックスが。目の合うエスターとマックス。この時をもって2人は一蓮托生となる。

ジョンは穏やかな性格をしている。
さすがに10年前の浮気に起因する後ろめたさから来るものではないだろう。
子どもたちにも分け隔てなく接し、エスターへも優しい。それでいてダニエルが悪態を吐くとたしなめる一幕もある。
死産の経験から夜の営みに消極的だったケイトへも優しかった。
その反面、物事を表層的な部分でしか捉えられない鈍感さがあり、ラブコメ漫画の主人公のような性質がある。
ダニエルが入院した夜。
家にはジョンとマックスとエスターの3人だけ。ジョンは一人で酒を呷る
意識耗弱の中、メイクと露出度の高い格好でジョンを誘惑するエスター。
が、ジョンはこれを拒絶し、今までの感情が酔と共に溢れ出す。
ダニエルのことがとてつもなく心配で不安なのだと。それは常に冷静で優しいジョンが見せる家族への愛と本音。
ジョンの優しさは様々な抑圧された感情の上に成り立っている。
今周囲には守るべき家族はいない。
気持ちを抑える必要はない。
側にいるのはケイトでもダニエルでもマックスでもない。
エスター。
家族を引き裂いた小さき悪魔。
君を置いておくことはできない。
そう告げるジョンはエスターの危険性に気がついていたかのようだ。
ダニエルが怪我をした状況を聞いて、エスターへの不信感が彼の中で固まっていたのかもしれない。
ジョンは鈍感なのではなく、見たいものしか見ていないだけなのかもしれない。
ジョンが家族に訪れた災厄を直視したその時、最悪の末路も迎え入れることになる。

通常、大人と子供なら大人の意見が優先される。信用されない子供の苦悩は古今東西様々な映画や漫画で描かれる。
しかし今作は全くの逆。
マックスが水難事故にあった際、ケイトは飲酒していた。それ以来断酒しているという。それでも自身の欲望への戒めとしてワインを購入する事がある。
見ていてつらくなるほどの葛藤の後、シンクに捨てる。
子供たちのため、自身の欲望を強い意志でねじ伏せたケイトを象徴する行動。
だがジョンはそう思わない。
ワインの空瓶が見つかれば隠れて飲んだと考えるのが普通だろう。信用しないジョンを誰も責められない。
この劇的アイロニーによってケイトの置かれている立場の崩落に観客は地団駄を踏む。
そうではないのだ。ジョンよ気づいてくれと切に願う。
ケイトの苦悩と反比例しエスターの嘲笑が絶望の淵へと我々を誘う。
この少女を止める術は存在しないのか?
エスターの正体を知り、家へ戻るとジョンは変わり果てた姿となっていた。
闇に沈むマイホーム。そこに蠢く悪鬼と逃げ惑う子羊。残され、草葉の陰で怯え震えている愛娘マックスを救うため、ケイトは立ち上がる。母性という名の武器を携えて。

エスターともみ合うケイトに加勢するため、なれぬ銃を手に引き金を引くマックス。
銃社会のアメリカでは子供の誤射による死亡事故が多発している。
マックスの放った弾丸は2人を逸れるが、この場面は銃の持つ利便性と危険性を顕著に描写している。

今作におけるエスターの存在は往年のホラーアイコンに匹敵するインパクトを残した。古くはドラキュラやフランケンシュタインの怪物、近代ではジェイソンやフレディやブギーマン等に相当する。
ところが、ホルモンの異常による発育不全、その境遇がもたらしたであろう数々の苦悩や孤独を考えるとどうしても恐怖の対象以上に共感と同情を抱いてしまう。演出やプロットによってスリラーっぽさが際立っているに過ぎないのだ。子供の姿から成長できないのはあらゆる面で自由の喪失を意味する。
それを象徴しているのがジョンを誘惑した場面だ。拒絶されたエスターはベッドに齧り付き激しく泣いた。アイメイクが涙のように頬を汚すまで。悲しいのか、悔しいのか、一人の女性として普通の恋愛もできない。エスターは聡明さと相反する直情的な凶暴性を孕んでいる。
それは生まれながらにして孤独を強いられ、子供の見た目故、永遠に自由を奪われた、極度の愛着障害の成れの果て。
彼女の死は悲劇であり、一種の救済だ。子供の姿で苦労することはもう二度とないのだから。
くまちゃん

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