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女が階段を上る時のmariのレビュー・感想・評価

女が階段を上る時(1960年製作の映画)
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(再考しながら書き足す予定)


働き方と人の愛し方には深い関わりがある。働くことを通して形作られる自己像があり、人はその自己像を通してしか他者と関われない。


働き方には、より高く、より早く、より強く、わたしではない何者かへと自らの能力の限界を越えようと挑み続ける道とそうでない道がある。


その二分法を男性的/女性的と言ってみせたりすることもできるけれど、男性であっても多くの人が抜け道へと逃れていくし、才能を持ってしまったためにその道に取り憑かれ苦悩する女性たちも多い。


たとえば圭子は夜毎、バーへの階段を上る時、こんなことを思ったりするかもしれない。
ーー抜け道へと逃れた男性は動物園でぼんやりと生きるゴリラのように、ふと思い出したように女性相手にドラミングをして自らの有能さを誇示してみせる。にこやかな笑顔で『すごいわ、さすがね。それで、それで?』と促しながら、ふと、そんなにぼんやり生きてきて、私たち相手にぺらぺらと口先を動かすだけで有能さを容易く取り戻せるなんて。いやだわ、やはり人間同士で話しがしたい。

けれど圭子は今日も奥歯を噛み締めて笑顔をふんわり浮かべ、最後の一段に足を掛ける。




"男らしさの道"から外れてしまった後ろめたさから女性を使って男性的な何か(power)を取り戻そうとする関根。



女性でありながら並の男ではできない道に生きる圭子。修羅の道にあって男を越える存在になりかけてしまった圭子が疲弊し、まるで女性性を取り戻そうとするべく、powerのある男性に屈服してしまいたいという欲に奥歯を噛み締めて堪える日々。


自分に心を寄せる男は自分よりpowerを持たず弱々しい。


しかしpowerがあると見えた男は女性の元を立ち去るときに最も男性らしくいられるらしい。

泣いたのは、女としての安らぎなどとうの昔に奪い去られてもう取り戻せないと、慢性的に繰り返される悲哀のため。喪失をその身に引き受けるとは、受容と拒否/期待によって長い月日さざ波のように寄せては引いていく哀しみのなかで一人佇むこと。

だからそんな栄光を容易く与えたりはしない、あなたは男らしく立ち去ったりできない。たじろいで、弱々しく、情けなく、自分しか愛せない、妻も愛せない、つまらない人生を歩いているでしょうって、誰一人としてあなたのために力なく頽れてなんかいないでしょう。あなたはこれからも一人で人生に押し流されていくのよ。わたしは、わたしが一人でさざ波のなかを立ち続けるためにそれを見送りたい。






圭子の心に安寧はない。男性を超えて、こんなにも遠くに来てしまった。今夜も階段をとんとんと駆け上がる。



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色々な年齢の、様々な職に就く男性たちについて思うとき、わたしは冒頭の考えに戻る。

"働き方と人の愛し方には深い関わりがある。働くことを通して形作られる自己像があり、人はその自己像を通してしか他者と関われない"と、そういう仮説を持った。



その男の人が語ってくれることの中から、やはりわたしは雌の鳥のように、その雄たちの囀りに耳を傾け、彼らが持つ固有の拍に身を任せてみて、彼らの認知機能の素敵さについて推しはかることにする。

囀りには文法があり、ある一定の繰り返される音の切れ目と抑揚、リズムとメロディーがある。それによって喚起される情動、興奮がある。

彼らの囀りが耳に入って、その拍に乗せられたとき、わたしの身体のなかにも彼らの囀りが駆けめぐり、同じ文法で同じメロディーで情動を刺激される。それが退屈であれば雌は雄のもとを飛び去るだけ。


共感の原型とは音楽の興奮で、鳥と同じく言語を持つ人間の愛についても本来そういうもののはずだと思っている。


時にひとの話に苦痛を感じるのは、身体の中に流れ込んでくる彼らの拍やメロディーがあまりに乱暴で拙劣だからだ。



耳を傾けたくなるのはいつでも女性たちの音楽で、彼女たちの固有の拍とメロディーに身を委ねていると、澄んだ氷のような碧の海に沈んでいくようで、心が慰められる。



一度だけ男の人から紡がれた言葉に胸を打たれたような気がしたけれど、それはわたしの声の反響だったみたい。もしかしたら彼も彼女たちのように鳴く練習をしていたのかもしれない。




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Ombra mai fu
di vegetabile,
cara ed amabile,
soave più


かつて、これほどまでに
愛しく、優しく、
心地の良い木々の陰はなかった



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◆ドラミングのコミュニケーション機能
自己呈示、不許容、状況の変化、興奮、好奇心、対等性
mari

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