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晩菊のあのレビュー・感想・評価

晩菊(1954年製作の映画)
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『書かれた顔』でこの映画が引用されていたので見た。引用されていたのは、杉村春子の身振りについての流れで、田部(上原謙)の訪問を知った杉村春子がロマンスを思い出して支度をするところと、その後の幻滅して写真を焼くところ。

この『晩菊』という作品は1956年に同じく成瀬巳喜男によって撮られた幸田文原作の『流れる』とセットで見る事ができる作品だろう。制作年は前後するが、後者が柳橋の置屋を舞台とした芸者たちの生活を描いているのに対して、前者は元芸者の四人の中年女性たちは置屋という生活の枠組みの外に押し出されたところでそれぞれ生きていかねばならない。

『流れる』という映画は、気が利いて物を言わぬお春(田中絹代)を視点人物として、いわば「家政婦は見た」的な構図でもって芸者稼業の悲哀を描く。『晩菊』のお錦宅の下女静子は聾唖者でありそもそも物を言えないし耳も聞こえないという意味で『流れる』での人物設定と近いものがあるが、必然家の中でのコミュニケーションは最小限度且つ身振りによるものとなるため、それがよりお錦宅をいわば「身振りの空間」にしている。それはお錦がもはや言葉のゲームに疲れて、言葉のやりとりの中で生まれる叙情を拒否しようという態度をとっていることとシンクロしている。芸者稼業が言葉と身振りの洗練の極致にあるとするならば、お錦は言葉を意識的に捨てながらも、身振りだけが染みついた残滓として残っていて、それが空間を「魅せ」てしまう。芸者的空間を保持しているお錦は必然芸者的身振りを保持しているが、他の三人はそこが崩れてしまって、むしろ言葉の余芸だけ残った感じで、だからお錦と会うと上手くいかない。
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