鍋山和弥

丹下左膳 乾雲の巻の鍋山和弥のネタバレレビュー・内容・結末

丹下左膳 乾雲の巻(1956年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

今作の、『丹下左膳』は、妖刀『幹雲』に、辻斬りを、させられてる、とある藩の、家来で、浪人のふりをしてる侍。この『丹下左膳』は、殿のために、動いてる、忠実な侍。『善』でも『悪』でもなく、『悪』は、むしろ、『幹雲』そのものである。手にした者を、狂気に変える。これが、妖刀の、恐ろしい所か。その恐ろしい妖刀であっても、『丹下左膳』は、『弥生』を斬らない。『丹下左膳』の、恋心の強さが、伺える。今作品では、様々な、恋愛要素があり、作品を、渋くさせている。『丹下左膳』の、『弥生』への恋心は、もちろん、そんな『丹下左膳』に、恋心を抱く、『お藤』。『諏訪伝三郎』を、思い慕う、『弥生』。諏訪道場の、師範の道を、断ってまで、『おつゆ』との仲を取った、その『諏訪伝三郎』。その『おつゆ』に、入れ込んでいた、『鈴川』藩主などなど、様々な愛が、展開される。この人間模様の、複雑さが、登場人物、1人1人の、心境の複雑さを、醸し出し、単純な、『善』と『悪』に、分けられない感じが、表されている。やはり、人間を、単純に、『善』や『悪』と、判を押すことはできない。人間は、『善』でもあり、『悪』でもある。『陰』と『陽』は、紙一重。人間は、『白』でも、『黒』でもなく、『灰色』だ。ただただ、『愛』の強さが、人間を、『善』にも『悪』にも、変えるのだ。『丹下左膳』も、例外ではない。いや、『善』も『悪』も、人間が、定義してるに、過ぎないのかもしれない。
鍋山和弥

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