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悪太郎のnetfilmsのレビュー・感想・評価

悪太郎(1963年製作の映画)
4.0
 大正時代初期、素行不良で「悪太郎」と呼ばれた紺野東吾(山内賢)は神戸の神聖学院をクビになり、母親に連れられて列車でとある場所へと向かう。通路を間にして左右に分かれた母と息子はたいした会話もないまま、ゆらゆらと列車に揺られていたが、母は目的地の2駅前で降りた。自然豊かな別荘地のとある邸宅、母親は近藤(芦田伸介)という男に息子を引き合わすと、翌朝早くの列車で先に帰った。母に捨てられ怒り狂った「悪太郎」は近藤が校長を務める中学校に編入となった。転校1月を待たずに都会からやって来た不良少年の悪太郎のウワサはたちまち全校にひろがった。5年生の風紀委員は東吾を目の仇にして、ことごとく対立したが、東京で文筆家を夢見る彼の屁理屈いつもにやりこめられ、手出し出来ない。東吾はこの村にやって来たその日に、こうもり傘を差しながら歌を口ずさむ少女を目撃するが、彼女はよそ者の東吾の姿に顔を赤らめ、すぐに隠れてしまった。ある日のこと、文芸誌を買いに本屋に出掛けた東吾は彼女の後姿を目撃する。主人に彼女が買った本を聞き、ストリンドベリという言葉に思わず衝撃が走る。

 都会から来た少年はここには何も学ぶことがないという大人を小ばかにしたような全能感を漂わせている。先生も上級生も同級生も全ての言葉に彼は悪知恵を働かせて返答するのだから、こんな子は母親にとって疎ましい存在だったことは理解出来る。だが彼の瞳は、こうもり傘を差しながら歌を口ずさむ少女の恥じらいの表情を見逃さない。彼の心は既に東京の空の下にあるが、身体は豊岡という田舎町にある。そのじれったい停滞の時間に、唯一心を開いた女性は岡村恵美子(和泉雅子)だったのは間違いない。彼らは大した情報量もない世界でヨハン・アウグスト・ストリンドベリの『赤い部屋』の話で精神的に繋がる。その奇跡のようなボーイ・ミーツ・ガールは十分美しく、青春時代の一部として賞賛されねばならないのだけど、東吾はこの街の美しい景色、大きな竹や幹、川の流れや木戸のある住居や欄干の美しさには気付いていない。清順の美しいモノクロームのシネマスコープ画面は、彼らを豊岡(実際には埼玉の田舎町だったという話もある)の風景の一部として颯爽と綴るのだ。

 これが『野獣の青春』の次作とはとても信じられないほど決して奇を衒わず、まるで松竹時代の在りし日の小津のタッチを反復するかに映る。夢にまで見た大人になる儀式の後、2人はテーブルに腕を付いて頬に握りこぶしを付ける同じポーズをしている。そのあまりにも愉快なポーズの余韻と奇跡的な美しさの後ろで、残酷な季節はひたひたと2人に忍び寄る。映画はあの無邪気なポーズを境に全てが一転する。その残酷さこそが清順が今作に込めた人生の思いがけない深さであり、儚さなのかもしれない。
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