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プルートで朝食をのCookieMonsterのレビュー・感想・評価

プルートで朝食を(2005年製作の映画)
3.8
アイルランドの田舎町で神父の家の前に捨てられた過去を持つ、トランスジェンダーのキトゥンは父と母の顔を知らずに育つが、ある日ロンドンへ消えてしまったという手掛かりを頼りにして、まだ見ぬ母親を探す旅に出る

この作品には沢山のテーマがあり、モチーフがある
それは意図的な散文として、観客を惑わし、残酷な物語に記された悲しみに埋没しないユーモアとして機能している
ファーストシーンからコマドリが歌うように、この作品は一種の御伽噺や寓話的な色彩が強い

"プルートで朝食を"というシンプルなタイトルには様々なメッセージが込められている
プルートは冥王星のことで、それは此処ではない何処か遠く、だ

これはまず間違いなくカポーティの"ティファニーで朝食を"からの引用
"ティファニーで〜"でテーマになった新しい時代の女性像は、本作でその性別を超えたトランスとして提示される

キトゥンは男女の性別を超えたトランスジェンダーであり、ただの"キトゥン"に過ぎない
英国とIRAが国境という境界線を戦場にして争っている時代に、性別という境界線を軽々と超越する
そして冥王星であるプルートは、人にとってそんな国境や境界線が認識できないほど、もしくは存在すらしない遠い遠い世界だ
キトゥンはきっとそうした自分を縛りつける様々な軛から解放されたかったに違いない
ただし、トランスとして生きる彼女は自分を規定し、定義する存在を求めてもいた
人々にとってキトゥンは男でも、女でもない、既存の価値観の埒外にある存在だからだ
だからこそ身に覚えのない爆破テロ事件で捕まったときに、刑務所に居場所を求めたのだ

キトゥンは何者でもなかった
だから例えそれが囚人でもよかった
心の拠り所となる場所が欲しかった
だから例えそれが刑務所でもよかった
当て所ない旅を続ける彼女にとって、解き放たれたい欲望と自分を縛りつける鎖と、相反する2つ同時には手に入らないものを、子供のように求め続ける人生だったのかもしれない

タイトルにあるもうひとつのキーワードは朝食だ
朝食という新しい1日の始まり
キトゥンの妄想では、自分が父親だと信じる神父が母親を襲うのが朝食を作っている最中で、そこでキトゥンが宿されたのだとすれば、朝食は彼女が生を受けた始まりを意味するものに他ならない

キトゥンは始まりに戻りたい
自分が生を受けたその時点へ
何故なら彼女は始まりを間違ってしまったと自認しているから
女性として生を受けるはずだったのに、生物学的な男性として生まれてきてしまった
だから、此処ではない何処か遠くで、始まりに戻り、人生を生き直す
それこそが彼女が願ったことだったのだと思えば、それを端的に表象しているのがこのタイトルと言える
けれど、そんな望みは叶わないからせめて、産んでくれた母親に祝福されたかったに違いない

だからこそラスト近く、子供時代に居場所だと感じられなかった故郷に戻り父親である神父の家で共に朝食を囲むシーンは、一見日常風景にみえるけれど、その穏やかさは確かにキトゥンが求め続けた、以前の日常とはかけ離れたもので、子供の頃に与えられなかった始まりの風景がそこにある

キトゥンは生まれながらに社会と闘ってきた
トランスジェンダーという自らのセクシャリティへの無知や侮蔑、偏見に対して
しかしそれは一風変わった闘いだ
IRAと違って、彼女が手にしているのは銃ではなく香水
IRA=暴力は彼女からダウン症の親友を奪い、唯一愛した人を奪い、生まれてくる親友の子供から父親を奪ってしまう
アイルランドに歴史的な抑圧が存在し、生活を蝕む
子供の頃から対英国軍という構図が遊びの中にすら存在し、自然と敵愾心を募らせていくが、それらは寧ろキトゥンを傷つける存在として機能する
暴力は彼女を虐げ、襲う人たちが行使したものだからだ

そして彼女がIRAにそこまで傾倒せず、関心を示さなかった理由は、他に戦うべき相手がいたからのようにも見える
彼女には北アイルランドの独立よりも、自分のアイデンティティを確立するというより個人的なテーマの方がより重要だったのだと思う

キトゥンには憎しみがない
アイルランド出身のキトゥンは、トランスという社会から異形として捉えられてしまう偏見という不幸も重なって、被害者となった爆破テロ事件の犯人として捕らえられ、暴力的な取り調べを受けるが、その刑事たちを責めることはしない
それよりも想像という物語を展開して、IRAを打倒する諜報員になったりする
そしてそのときもキトゥンが手にしているのは香水だ
道端で殺されそうになった時もまた
その香水は暴力の代わりに彼女が身につけたユーモアだ

作中のチャプタータイトル"very very serious"にもあるけれど、seriousという言葉が本作では頻出する
軽やかに進んでいくこの作品に描かれる出来事もシリアスだ
そんな人々のシリアスさをキトゥンは笑い飛ばす
寧ろ馬鹿にしている
シリアスさは物事を解決せず、
それはユーモアがなければ彼女は生きていけなかったからだ
その闘いも故郷で終わりを告げる

生き直したいと願ったキトゥンが自分の生を受け入れ、自分の望んだものを故郷で見つける
愛されるということ
そしてそれはずっと近くにあった
まるで青い鳥のように
それを隠喩するようにコマドリはすべてを見ていた
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