青

リプリーの青のネタバレレビュー・内容・結末

リプリー(1999年製作の映画)
3.6

このレビューはネタバレを含みます

過去に『太陽がいっぱい』は鑑賞済みだが、ラストの“あちゃー感”以外よく覚えていなかったので、今作と過去作を比較する鑑賞はできない。
陰鬱で、人間観察が得意で、音楽を愛する、単なる夢見がちな青年が、名門校の制服を借りて他人に成りすます経験をしたことを皮切りに、どんどん嘘がふくらみ、自分自身でも何が起きているのか分からない状態に陥るストーリー。
あいつの地位や富がほしいという嫉妬は、あいつを手に入れたいという強い恋愛感情に似ている。両者とも強い憧れの情動なのだろう。
リプリーは同性愛者なのかもしれない。しかし、同性愛者に向かう社会のまなざしを巧みに利用して、警察や友人をだましており、単に自分の性癖に悩む青年ではなく、自己を外側から観察する自己を獲得している。なのに、自分で自分の正体を見失うという青さをもった、完全に混乱した人間として描かれている。メタ的な自己認知が得意なリプリーが、一方では混乱している描写があることをみるに、本当にリプリーは同性愛者なのかが疑わしくなった。その場、その場で、自分の周りの環境を騙す選択を続けているだけの人にも見える。
境遇的に他人を羨ましいと思う傾向性を獲得し、ものまねという他人のなりすましを得意とする才能が自分自身が他者ではないという分裂を強調させ、そのことがさらに他人を羨ましいと思う傾向性を助長し……というように、リプリーの内面には何重もの螺旋が形成されていると思う。リプリーの性格の分析のしづらさの原因はそれかと。鑑賞後に残る精神的にヤヴァイ奴感の原因。

ものまねって、ものまねの対象人物のその人らしさを抽出している点で、ちょっと、なんというか……(、、、、、本質主義者のような人物がいたとして、その人物から考察された場合に、)危ない行為のようにも思える。ある人が誰かを物まねしたときに、「その人」のように見えるということは、「その人」がその人であると周囲から認識されている何かを、ものまねを実施している人は体現できている。その人をその人たらしめる何かを、全部とは言わないまでも、一部コピーし、再現できているので、じゃあ物まねされている対象であるその人の本質っていったい何よ?、とか、人の本質はその人がもつ唯一かつ固有のものではないのね?って言えそうで怖い。人の本質は、”振る舞い”のようなものまねできる要素によっては決まらないのだ、と反論すればいいのだろうけど。(ある書籍内で、絵画の模写は本物を分有しているという主張(多分)が紹介されていたので、ものまねに関連して緩く連想した)

【以下は、映画よりも書籍と合わせた感想】
ミランダ・フリッカー『認識的不正義』内で、この映画のとあるシーンについて言及されていたので、興味を持って鑑賞した。

フリッカーが問題にした箇所は、マージのみがリプリーの正体を見極めており、真相に唯一たどり着いているにも関わらず、周囲の男性は“それは女の勘だから、信用に値しない”という形でマージの証言を封じ込める場面。フリッカーは“これが証言的不正義の典型例や!でもまぁ1960年ごろのジェンダー観からしたら仕方ないけどな”という仕方で批判していく。最終的にマージは“ヒステリーな女”に仕立て上げられてしまい、マージ自身もそのような女像に自らはまり込んでいく。フリッカーが言いたいことはとってもわかるし、よくこんないい例を見つけてきたなと感心するのだけど、でも所詮、脚本のある物語だから、説得力のある批判になっているのか疑問だ。「このような女性の表象を許さない」とか「このような女性の表現は、女性への社会的偏見を助長する」とか言う仕方で批判してくれれば納得だったのだけど、誰かが物語を面白くするために書いた筋書きに対して、これが証言的不正義の例で~と説明されても、説得力がない気がする。私はね。
この場面は、リプリーの正体がついにばれてしまうのではと鑑賞者の誰もが冷や冷やする会話が、実はそういう会話ではなかったという意味の転換を楽しむ場面である。
グリーンリーフ「君(リプリー)が指輪を持っていた理由はただ一つだ」
という発言は、初見時の観客には“リプリーが犯人であることがグリーンリーフにばれた”という意味をもつ発言のように聞こえる。しかし、その後の展開を見て、その発言が“女遊びに高じたディッキーが何かの都合でマージに愛想を尽くし、指輪を親友に託した”という意味であることに変わる。この転換のために、マージに向けられる女性への偏見が巧みに利用されている。フリッカーはリプリーが女性への偏見を巧みに利用して、と説明しているが、正論を述べるなら、この映画全体の脚本が女性への偏見を巧みに利用しているのだ。だから、映画の枠に収まった登場人物だけに対して、ある発言が非難に値する/しないと語るのは、ナンセンスだと思う。批判の対象は映画の脚本だ。そして、脚本を叩く場合には、その映画が持つ作用に言及しなければならないと思うので、「このような女性の表象を許さない」とか「このような女性の表現は、女性への社会的偏見を助長する」とかいう仕方で批判してほしかった。「グリーンリーフがもつ女性への偏見は仕方ない」というフリッカーの結論に対しては、そもそも脚本の上で動かされているグリーンリーフに主体性はないのだから、結論以前に判定ができないっしょと思う。
(【追記】: 何か議論を展開していく上でフィクションからある場面を引用することは、フィクションである以上、新たに証拠が追加されることがなく、出来事として何が起きていたのかを整理しやすいため、メリットはあるという意見を聞いた。確かにと思う。試験管の中で実験をするように、フィクションという閉じた世界から得られる条件に基づいて思考することで、どんな要素がどんな反応を引き起こしているのかを明らかにしやすい。
私の懸念は、現実がフィクションに還元される捉え方をされると、現実の問題がもつ痛みの経験や被害者の存在が蔑ろにされそうだなと感じたことだった。だから、現実の問題をフィクションと同列に扱ってほしくなかったというのが私の心情の実際だと思う。
ただ、現実がフィクションに還元されるのではなく、フィクションが現実に還元される考え方もある。このことから、現実の問題をフィクションと同列に扱うことに違和感を抱き、心情から文句を言うのは、早とちりだっただろう。)

グリーンリーフのような、証拠を提示されてもかたくなにその証拠を拒否する人は、現実世界にどれくらいいるのだろうか。
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