塚本

メランコリアの塚本のレビュー・感想・評価

メランコリア(2011年製作の映画)
3.8
地球滅亡というありきたりのSFのプロットを横軸に、ある家族の、それに対する心理の動向を縦軸に描いているが、地球滅亡という未曾有の出来事に対しての、マクロな視点が決定的に欠けています。

究極的には、二人の姉妹だけを相対的に描いている。

ベルイマンの『沈黙』のSF版とでもいうか…あるいはタルコフスキーの一連の、視覚的に派手なガジェットを用いない思考型SFに近いものがあります。

この作品、パート分けされていて第一部の『ジャスティンで』と名付けられたパートでは、彼女自身の結婚式の模様を延々とぶれぶれの、船酔いのしそうなハンディ・カメラが、そのディテールを執拗に映し出します。

ジャスティンは姉のクレアを含めてどこかの格式ある資産家の娘なのでしょう。

妹のジャスティンの結婚式も、海を見下ろせる岬の一画に広く切り取られた平地に、18ホールもあるゴルフ場を設えた、姉クレアとその夫であるこれまた資産家で天文学者であるところの夫が所有する豪邸内で行われようとしています。


この、幸福の極致たるセレモニーのことごとくを当のジャスティン自身が、他者全ての神経を逆なでするが如くに、ぶち壊していくんですね。

それは、彼女が本格的な鬱に入る直前の自己破滅衝動やったのかも知れません。

それから、その根底には他者の幸福を祝う、という偽善性に塗り固められた雰囲気の皮相をシャベルでもってザクザク掘り起こしていく、なんともいえない居心地の悪いネガティブな、黒い諧謔は、ブルジョアジーを徹底的におちょくる時の、ルイス・ブニュエルのやり方にそっくりなのです。

ブニュエルに似ているところは、パート2の、何故かこの豪邸の敷地内から出られないという、『皆殺しの天使』という作品に通ずるところがあるのだが、それは後で論じます。


…姉の名を冠された『クレア』という第二部では、惑星メランコリアがいよいよ地球に衝突しようとする、ディザスターもののストーリーに転換していきます。

しかし、舞台は相も変わらずこの、緑と青が静かに息づく、オゾンの匂いがピリピリとむせ返るような…下界と完全に隔絶された豪邸を囲む敷地内にのみ限られて、話は進んでいきます。

メランコリアに関する情報も、クレアの夫が望遠鏡で観測する、その過程しかない。


幸福のセレモニーの絶頂ともいうべく結婚式で鬱の前哨を、攻撃性にて発露していたジャスティンの症状は、本格的な鬱の様相を呈し始め、姉夫婦の、この豪邸で養生することになるのですが、メランコリアが地球に接近するに従って彼女の態度は姉夫婦とは対照的にひどく落ち着いた精神状態に移行していきます。

鬱の深刻な心理状態とは?……

それはこの世の全てが無になることを切望することなのかも知れません。
死は、それを為しうる唯一の状態かもしれないが、果して本当にそうだろうか…


"生→死"といった時間軸のベクトルが、相対的なものとして成り立つ定理の下、死はゴールとしての無にはならない。
アキレスと亀の例えを出す限りにおいて、生から死へのプロセスは宇宙時間の流れ方に対して、実は永遠に死に追いつけない…というパラドックスが存在し、個体は“どこでもない”という“意識”の存在する場所を彷徨うこととなる。

そしてもうひとつの命題。

“どこでもない”時空間におかれたものが意識を持つということは、“意識される”ことが前提にある…という不確定原理。

それならば、絶対的な無を造るということは、全ての観察者と被観察者がこの世から消滅せしめれば成し遂げられるという公式が生じてくる。

…ジャスティンはそんな絶対的な無を希求したのでしょうか…


…冒頭の超高速撮影による、イメージの連鎖はジャスティンがメランコリアの地球に対する接近・衝突を予知していたことを意味している。
このイマジネーションに富んだシークエンスは彼女が神憑り的なコピー・ライティングの能力を持つ、という事実から、『この世の終焉』と題された、彼女自身が作り上げたプロモーション・フィルムだったのかも知れない。

彼女が予知能力があるということは結婚式での余興の、瓶の中の豆の数を当てるゲームでも示唆されている。

…『全ては決まっていることなのだ。』と彼女は、地球滅亡を沈着な態度で言い放つ。

結婚式の時点でそれを知り得た者が彼女だけであったなら、あの破壊的言動と、そのあとの本格的な鬱に入っていく姿と、全てが無になることを自覚するに至って、その後、冷静・明晰さを示す彼女の、この不可解な一連の過程が理解できるだろと思う。


…さて、もうひとつの謎を明らかにしていこうと思う。

高台の邸宅は、前は岬を臨み、周りは森や小川などの艶っぽい自然に囲まれた場所にあるのだか、ある一定のポイントから、残されたジャスティンと、姉家族の四人が出られない、ということだ。
そのポイントとは小川に架かった、小さな橋である。

そして、最後に彼ら(途中、クレアの夫は絶望のために自殺する)三人がたどり着いたのは、19の文字が印された旗の立つ、ありもしない、“19番ホール”だった。
これは一体何を意味するのでしょうか?
いろいろとサイトで調べていくと、監督の自身がそれについて説明しているとこを見つけました。

監督のラースフォントリアー曰く、「“Hole 19 ”is linbo」だそうです。


Linbo(リンボ)とは、さほど罪を犯していない“善良”な人々が最後の審判の日まで暫定的に置かれる、天国と地獄の狭間にある、どっち着かずの“辺獄”という所であるらしいのですね。

惑星メランコリアが、最接近してきたときクレアとその子供は、何処へも逃げ切れない事実を理解しながらも、橋から先には進めないことで結局はジャスティンが鎮座する19番ホールに戻ってくる。

ジャスティンは、まるで何かの儀式の如く、そこに小枝を編んで小さな“シェルター”をこしらえる。
メランコリアが接近し始めてからの彼女の顔つきは預言者の冷静さで、確信に満ちた言葉を発するに至っている。

彼女は、クレアの子供をしっかり抱きしめて、「ここにいれば大丈夫。」…と優しく言い切る。

…大丈夫とは何を指して大丈夫なのか?
安心させるためだけの言葉を発するには、彼女は全ての事共に対してあまりに直截的だ。この期に及んでその場しのぎの言動を取るとは思えない。

ヨハネの黙示録においてこの世が滅ぶとき、選ばれし者のみが神の王国に導かれる、とある。

もし、絶対的な無が為されたのなら相対的な神という存在は無くなってしまうが、この黙示録の定義に拠れば唯一、神の視点(観察者)が宇宙に残される…ということにはなりはしないだろうか…


神はリンボの中からも救うべき者を選ぶという…

ジャスティンは神の視点が有る限り、審判を受ける者として観察される者という立ち位置でリンボに残される状態にあるわけだ。
リンボはある種の結界だ。

その結界内に、更に小枝のシェルターをこしらえるということは、結界の中にもうひとつの結界を造ることに他ならない。

この結界内結界とはなにを意味するのか?

リンボという、地獄でも天国でもない、なにものにも属さない時空間に、とりあえず身を置いたジャスティン。
だが、そこも黙示録のドグマによれば神の視座の裡にあるという。
…おそらくジャスティンは神の干渉すら入れない…完全に無になるための結界を張ったのだと思う。

そういう流れで読み説いていくと、この物語も神を完全に否定・拒否するという声明文に読めてくるのだ。


まさしく、『アンチ・クライスト』と同じ系譜の作品だと言えるかも知れない。
塚本

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