ニューランド

黒時計聯隊のニューランドのレビュー・感想・評価

黒時計聯隊(1929年製作の映画)
3.4
✔『黒時計聯隊』(3.4p)及び『河上の別荘』(3.6p)『人類の戦士』(3.3p)『最後の一人』(3.3p)▶️▶️

 以前米映画史の講演のサブタイトルが、「フォードからスコセッシ(英語読みならスコセージか)」と題されてて、美と世界と心情の·映画への純粋昇華の普遍巨匠と、妄執と内的過密により·映画の表面を原点に壊してく力の(当時)駆上り中·鬼才、の両端のトップ移譲形かなと思ったが、1930年代前半のトーキー期のフォードは、汎ゆる魅惑的映画ジャンルの内面からもの、開拓創始者のように思えたりする。形より寧ろその内からの、真に価値ある。
 『黒時計~』。「キング」との呼び上げが、一将校の固有名詞呼び·英国国王への敬意表し·アレクサンダー大王以来の白人の「キング」の血を待ち望むインド北部部族、の間で繰り返され、困惑し、比例感動してくる。仏フランダースにて醜く「自壊」してゆくヨーロッパ文明(尤も、作品中の魅惑的水晶球外内の世界は、敵が引き入れる作った幻影かも分からず、ラストで旧隊の皆が再会す)、それを清算すべきアラブの「聖戦」は、流れになる逆行も本分を果たしたスコットランド高地士族の忠義·信頼の遂行によって不成功に終わる(英=印国軍兵士のイスラム教徒も同族に侘び悔いるが)が、それは作劇上の事で仕方ないか。様々な有名映画の先行作であり、そのゆとり·豊かさに充たされてく。トーキー初期の喧伝かスコットランド軍楽隊や民族唱歌の執拗さから始まり、スピルバーグ『レイダース~』のワクワク異国情緒を先ず思い起こさせ(70年代からの米映画の中心者の最高作の一本に劣らない出来だ)、『~ロレンス』ディートリッヒ=スタンバーグ『~バンチ』らも呼び起こす。僻地民族のアイデンティティを描き抜いたという面では、今年のアカデミー賞に最も相応しいとする人が本サイトでも多かった『イニシェリン島~』に充分に対抗できる作。
 スコットランドの軍営の深く微妙霧と北インド山岳の視界が謎めくトーンが繋がり、軍隊列らには俯瞰め退きが多く、室内対峙では細かな寄り退きサイズ切替の味、終盤の軍らの動きには能動的縦移動が効果的に多用される。何気に深い縦の構図が効果的に随時現れ、ディートリヒ的ソフト魅惑CU、格子や窓や扉越しの図の多さはワクワク感を煽る。
 トーキー初期のフォードはナンデモありの破天荒設定進行も多いが、その懐ろの大きさには惚れ惚れもし、可能性に本当に湧き立つものあり。 絵のトーンやコマ運びが序盤変だった版だったのは少し残念。造型·トーン·タッチが極端な偏った趣味に嵌るひとつ前で、素直平明に伝わる本物の力が存す。
 対ドイツの欧大陸より、秘密裏にインドのアラブ勢力の勃興を潰す、その為には、卑劣やだましやひた隠しも平気な、チャーチルからサッチャーに至る卑劣の塊り英国国家体質が、作品意図とは別によく出てる(優位に立ってからの惨劇無意味·停戦呼び掛けも白々しいが、敵は全てを見抜いて、一対一の恋に殉じたのだった)。
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 『河上~』。ノースーパーの16ミリ版で四十年ばかり前に観た時は、こんなに多くの箇所で細々と切れてはなかった気がするが、元からか、結構普通の映画ならしつこく描く、投資巻上げ奪還や、務所内野球試合の、場なども省略も平気の自在なスタイルは、『ロンゲストヤード』や『ダイナマイトどんどん』らの不良スポーツものの原点で、より粋で余裕をかましてくれる。昔は、後の大スターら初登板作位の興味でそれ程感銘はなかったのに。
 ヌケ·シルエット·モヤと光感のトレードマーク辺りから始まる、脱獄·分派·再会暴力·再収監の序盤は、荒々しいうごめきに完全フィットの、直接意味ない角度変えや戻し組、カット対応やトゥショット·切返し·90°変、退き寄りやトゥSの無理どんでん、ガツガツと力はみ出しカットが切られ·変に含みあるシーンは続き、人の画面内動きやフォロー移動の動感の息や立体的速度も凄い。フォード色なんて、大きく越えた映画だけの剛力張出し、文句言わせず。務所に戻っての悪意や恨みの根っこがブスブス燻る緊張感や、思わぬ純な恋の育て、更に務所内公演と反応のベタ、等は、在るものをまんま捉え(続け)切返し、間延びしようが勝手気ままふうだろうが、工夫等のあざとい嵌め込みは拒んでくる。懐ろだ。
 そのカップルの出所、彼女への惚込み無理ならと所長をだまし娑婆に出ての、始めの二人の内輪の齟齬や通じ抱えての、活躍は映画が立って、効果ある動きや行動がビシバシ絡めとっての、纏め力がワクワク見えてくる。女の、元ボスの、男が富裕上流家を聞きつけての、バラし脅しや母を株式詐欺へ引込む、への鮮やか阻止と、身分違いにたじろぐ女への火付け。務所に戻り、怪腕復帰に至る辺の、スタンド多者への一体長い張ったパンや、二人の未だイザコザや流石ポーズの提示の図、試合してないのに、アルドリッチのクライマックスの高さをカラの構えだけで越えてしまう。「(彼女へ)全部揃えて、チャイナドレスも含め、(語ってたろ、中国行けずを悔いてた)彼の所へ(恥じずに)」「(所長へ)嘘は言わない、あ、嘘は二度と言わない」「まだ、言ってるか。置いてったは、補助席誤認の可能性有無で、俺の悪意疑いが、なんて」 
 先日観たアカデミー賞戦線作でいうなら、こっちはメンデスの久々快作感動作匹敵の映画力満喫。
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 『~戦士』もまた、個人的には不明も·歴史に名を遺してる、高名科学者の世界的猛威のペストへの問題意識立上り、その最先端西インド諸島への乗込みを中心とする、生活の為の地方獣医?時代の血清の完成への拘りの効果からの天啓、その人体への効用実験を絡めた試験者の二分策に対するモラルの問われ、その何処か俗物的意識を清めてくれた、科学に対し敬虔な恩師、離れない愛固持を曲げぬ妻の、存在、への引き戻り歩み直しの人生、というあまり興味はわかない題材だが、典型的時系列伝記映画で、本当にこの時期フォードは、恐れもなく大胆自由に、多種多様な表現踏み荒しを平気でやってた。恐る恐る感皆無の、後進を導くような確信的な筆致のフォード三十代後半トーキー初期時代の典型作。
 まず、驚くは『市民ケーン』を先取りというか、それ以上の造型屹立で、かの作のルックのベースは、ウェルズやトーランドを遡り、完全にフォードにあったを証明してること。そのシャープな俯瞰めを中心とした広角縦の異次元の構図·美術構築(近代的建築物内外だけでなく、雪の外景セットもや異世界の風土延び感や一気火災始末)、影や白煙らや天井取入れ図、フラスコや煙草らの小道具の象徴的使用の、バンバン普通に押してくるのに驚く。
 縦へやフォローの移動、角度変や切返し、らの積み方は、鷹揚とはしてていいが、真のキレやスタイル化にはまだ、至ってなくて、若干騒々しさは拭えない。
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 この時期の多面拡がりの可能性·活力はサイレント期の、アイリッシュ魂絡み西部劇や軍隊もの·動物や地方のコメディ、らに限られた一本線の純粋で少し取り憑かれたような核も持ってた時代と比較すると明らかだ。
 『最後~』は純粋サイレントではなく、サウンド版みたいだが、後半近しく絡む個性的キャラらの登場とインパクト、東洋西洋の世慣れ擦れきった酒場の女らの猥雑圧巻力とそれに沿う艶かし動きと歌の内容、速いパンや長い縦移動がまさぐる世界一縦長という酒場と大窓硝子や小道具が陰影圧巻異様に詰まった美術、の淫猥上海シーン冒頭に比べれば、接触事故で浸水·水没の潜水艦の、脱出·駆逐艦駆けつけ救出の、無線永く不通·魚雷口に限られた脱出口·次々落命と操作の為ラスト1人は残る、らの東シナ海の中心シーケンスは、人情·危機感真っ当過ぎて、海水や煙たちの狭い艦内と·対処海上に限られた窮屈さを、色々キャラやカッティング·細かな移動での工夫も拭えない。
 しかし、以前·乗船前に女に漏らした事から、運んでた要人諸共破壊された潜水艦の、死んだとされてた船長が生きて放浪してて、名を変えこの潜水艦に載ってて、バレそうな危機、そうすると女に罪が、の中、決着をつけ方の男気、等の戦前中国の、旧い亡霊が彷徨い続けてる、風土空気感は貫かれてる、描き上げの意志が敢然とある。         
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