りょうた

独立愚連隊のりょうたのネタバレレビュー・内容・結末

独立愚連隊(1959年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

映像という超人間的なものを必死で抑え込もうとしている稚拙な記号的、抽象的映画である。少なくとも今作が公開された際の岡本喜八は人間とは何かを語ることができたであろう。その言葉の抽象性に気づくことなく堂々と人間とは何かを語るに違いない。わたしは死ぬまで人間とは何かについて語ることはできないであろうし、語りたいとも思わない。例え語ったとしても暫定でしかない。あっさりと掌を返すだろう。ただ、それは人間の具体性、個別性に目を向けているからで、抽象性、集団性にしか目を向けないのなら、きっと意見は変わらないだろう(日本において意見を変えないことの美学があるがどうか)。一つだけ、人間について言えることがあるとすると、人間は曖昧で多義的で複雑な宇宙である。つまりは分らないということは分るのである。ただ、今作では人間を一義的なものとして表現している。ただ、メロドラマを悪としてつるし上げることはできない。それではメロドラマの可能性を追求している作家に失礼ではないか。チャップリンの作品には人間が何たるかを垣間見たと感じる瞬間がある(もちろんチャップリンだけではない)。そこが今作には一切ないのである。映像は「伝えること」は出来ているが、それ以上のものを一切「感じる」ことができない。第一に人間を信じていない。いや、信じるか否かの次元ではもはやない。人間の多義性を知っていながらも、記号的に表現することによって安心するしかないのだ。愚連隊の隊長と主人公が見つめ合うシーンにおいて、「目を見てみろ」という台詞に対して細かく切り返すことしかできないのが、何よりも雄弁に語っている。信頼に足るような眼を演出することができないと自ら観客に伝えているようなものではないか。つまり、人間という存在に対しての降参を意味している。他にも、中国人「っぽく」みせるためにはこういう喋り方をしておけば観客は受け取るだろうという慢心も非常に不愉快だ。観客はなめられていることに気づかなければならない(ただ残念なことに今作は当時大ヒットしたらしい。現在も変わらないだろう。舐められるな!)。彼にとって役者の顔とは感情を表現する場であるらしい。第二に、映画を信じていない。音声の音源をすべてフレームに収めようとする。「ここだけの話」が観客に聴こえてしまう。勿論、聞こえなくては物語を語ることはできないから。他にも、音楽の効果的な使い方など、挙げだすと切りがないと感じるほど、映画「っぽい」作品だった。表層的なアイディアで映画を作るべきではない。主題と形式が大幅にずれている。主題と形式は固く手を結ばなければならない。当時「反中国的」「好戦的」という物語に対する批判があったようだが、そこはこの際どうでもよい。
●映画のための身体の運動ではなく、身体の運動のための映画であるべきだ。
●無意味なカット割りによる視点の移動、リズムの不快感。振り返るアクションでショットを変えて、また変えて。
唯一今作を見て良かったと感じるのは、佐藤充という役者を発見したことである。稀有な役者だ。自分の嘘に騙されていないことを願って、他の作品も見てみようと思う。
りょうた

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