【告白という制度】
マーティン・スコセッシの出世作。自分自身のルーツに迫った「卑しい通り=Mean Streets」を舞台にチンピラ達のどんちゃん騒ぎと日常を延々と描いたもの。荒削りだが見入ってしまう画のインパクトと音楽センスが妙にクセになる一作。
ハーヴェイ・カイテル演じるカソリックで神経症の青年は勿論、スコセッシの分身である。恋人がいるのに黒人ストリッパーに浮気しており、借金まみれのジョニー・ボーイ(デ・ニーロ)の面倒を見ている。常に何らかの「業」というか、罪悪感を背負っている辺りが特徴。
デ・ニーロ演じるジョニー・ボーイとの不吉極まりない台詞の応酬がブラックジョーク的で面白い。のちの『グッドフェローズ』のジョー・ペシが演じた暴れん坊、トミーのキャラ造形にも通じる。フリーキーで即物的な映像で綴られるダメ男の反省記録のような作りである。
その手の映画青年らしくヌーヴェルヴァーグを意識している為か、映像による引用も多くジョン・フォード『捜索者』やフリッツ・ラング『ビッグ・ヒート』などをこっそり挿入する辺りがオタクのスコセッシらしい。
恐らくタランティーノやポール・トーマス・アンダーソンなどの現代の若手映画作家達が「手本」にし易い映画的発想と飛翔感に満ちた一教材にもなり得る作品と言える。画面から横溢する若々しいエネルギーと暴力性が肝。中上健次『千年の愉楽』にも通じる輪廻転生感&無常感…。
本作はスコセッシによる最も先鋭的でアーティスティックな映画であり、これに比べれば『タクドラ』や『レイジング・ブル』は所詮雇われ仕事に過ぎない。そう痛感させられる漆黒の青春映画なのだ、これは。