ニューランド

暁の偵察のニューランドのレビュー・感想・評価

暁の偵察(1930年製作の映画)
4.6
本作を初めて観たのは20C末のFCでの、映画を知らない朝日新聞の学芸部?がフランスのカイエ~の論説を鵜呑みにしての、欧代表のルノワールに続く米のホークスの回顧展の開催によってで、日本独自の評価軸を持って欲しいと情けなくも思ったが、ノーマークの本作には心底驚いた(コピーを重ねたらしい、プリントの状態は酷かったが)。じっくり観たことなくも’90年代半ば時点での無条件で好きなホークス映画(まあ、はっきり言って理解度・関心が低い、今も?)としては、『港々~』『暗黒街~』『特急~』『赤ちゃん~』『コンドル』『空軍』『脱出』『赤い河』『モンキー~』『リオ~』『エル~』等があったが、たちまち上位に食い込み(『奇傑パンチョ』等も傑作だった)、特に航空映画ならホークスの印象を強めた。いつもながら、心の傷と贖罪の求め、負の精神の昇華を絡めての。
これは、戦争映画でもあり、戦闘の悲惨さというより、死と隣り合わせた極限の無常・緊迫の時間の噛みしめを描いた作品である。「くそ仕事を請け負う(味方の)斬首人の酔っ払い」「そんな作戦無理、成功有り得ず死者だけ増、官僚は実戦と無縁・・・分かった、やる」「帰還確率僅少ゆえ、死に方の心構えを?馬鹿な!」「そもそも熟練敵航空兵に対し若い経験ない補充兵主体」「明日はわからない、今この瞬間瞬間だけを生きている・生き抜いていくことだけ」等の愚痴・怒り・実感がつぶやかれ飛び交う、敵重要拠点と向き合った最前線の貧弱航空基地の他人の生死を預かり責任に苦悩が途絶えぬ司令官3代を中心とした、航空兵・整備や事務の基地の軍人も含めた、空中戦・敵地侵入と爆撃の視覚スリル・奇跡の見た目の鮮やかインパクトと並行した、内実の重苦しい瞬間瞬間、モラル等の立脚点、立場と友情を引き裂く現実的狭間を、誠実に自虐的にしかし未来をどこかに見つつ描いてゆく。
しかし、これは自分と、その近い者の死をいつか、意識しての葛藤が始まる、我々もある時点から持たざるを得ない、避けられない生の実感の脅かされと強度の見つめ直しの現実的時間のありかたに、深く通じてく。その意味で、素朴とも見える、基地家屋の司令官室・集合場所兼酒場・2階寝室らの描写は、角度・サイズ・各よりソフト望遠め?・カット間に位置と対応性・移動・パンティルト、僅かのあからさまに表立たない一点一画にじつに真摯な力・唯一性がある。とりわけ、ドイツ兵捕虜・奇跡的帰還兵・その場のその他生存兵・そして見えぬ他者を救わんとして命落とした(かつて親友を失いひとりだけとらわれてた)が己への名誉を戻した死者らが、撃墜・被撃墜関係が錯綜する中、一堂に根っこを棄てて、無意識無心に飲み踊りはしゃぐが止まらぬ、雑じり気のない死の中にもある生だけが抜き出し謳歌するシーン、近しいだけに明らかな危険が分かって、補充兵の学徒の弟の出撃の取りやめを進言した古参の兄航空兵と、その親友(以上に単独飛行前の生死を潜り抜けてきた編隊のパートナー)で現司令官の、事態分かり過ぎてても立場上特別計らいできず「良い」死にかたしかアドヴァイスできぬ、差異とすべての現実化に際しての友情ヒビ割れとひきづっての罵り・引き受け(・時間も)経てひとつ上か逃れる救いのレベルへ、のシーンは、言葉・概念ではない、死が現実に食い込み昇華・沈澱されながら、いま現実としても活きている、稀なる造形+動態のこの手に掴める奇跡といえる。
ホークスといえば、いまや『ヒズ・ガール・フライデー』『三つ数えろ』らのセンス+逸脱が代表してていい気もしてる中、この愚鈍なテイストも私には同列、それ以上に大事だ。
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