ニューランド

さよならはダンスの後にのニューランドのレビュー・感想・評価

さよならはダンスの後に(1965年製作の映画)
2.9
私は個人的には結構、満足・堪能した作品で、上映前同世代の知り合いの姿を見かけたので、見終わって感想を聞こうと思ったが、我々の数倍・年千数百本毎日4・5本観て会場で余韻に浸る間もなく次へ走り回ってる人なので掴まらなかった。いまでは昼メロあたりでも、類似の主体性なく、他人への善意と・自己の想いから一歩も踏み出ず、感情に流されっぱなし、好転の兆しも思わぬ事件・事故がふりかかり、近しい人のお節介な助言・助け船が却って自己嫌悪をつのらせ、事態をどんどん袋小路に追い詰めてくこういうドラマの変形は観られなくなったのだろうか。かつて、昭和の中盤後期あたりまでは、ドラマ内という身近にそういう人もいるんだ、と寛容な認め・納得で、目くじら立てずに、ある面での情操のキャパを拡げるために、共感というよりなんとなく暖かく、観ていたものだ。一方では、大島渚・今村昌平・若松孝二・小川紳介といった、今では観られなくなった真っ向からの、反国家・反近代の恐るべき映画も同時にあった。今ではニュアンスが変わるだけで、作品のあり方は逆に随分狭まった。発言者が多彩・多様となったが、自分の位置をこじんまりと守り、危険な所に踏み出すこともなくなった。本作などは、硬派からの邪険な扱いを当然覚悟している。
それにしても、なんという美しいモノクロ撮影者の腕。ロケとセット撮影の間に弱冠差異があるが、当時の街並み・風情・光景のコンプリート・コレクションの趣きの場所取り・カメラ位置・構図。(大Lの)シルエットや・逆光平気の思いきり、ドラマを詰める角度変と縦の図の確かさ・巧みさと照明の選択、列車の駆け抜けを迎えるセッティング・フォローの怪腕と列車からのライトの力、ステンドグラスやシャンデリアを散りばめたセットを更に格上げした捉え込み、無駄のないカメラワークとカッティング・アングルとサイズ取り。ネがの状態がよく、プリントも丁寧に焼いた事もあるのかも知れぬも、往々にして反野心作に目立たぬスタッフの実は凄腕を見たりする。
ニューランド

ニューランド