Raiya

愛欲と戦場のRaiyaのレビュー・感想・評価

愛欲と戦場(1955年製作の映画)
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今回も先ずはメルツ『痛風の歴史/文化史・医学史の観点』を参考にして、中世と近世の痛風を見て行くことにする。

古代の末まで痛風のイメージとその治療はほとんど変わらなかった。5世紀ヌミディアの医師カエリウス・アウレリアヌス Caelius Aurelianus は相変わらず「飲酒癖、強い冷え、体液の消化機能不足、性的放埓、過労、負傷」を痛風の主たる要因として、骨膜 Periost と頭筋 Muskelkopf に所在を求めた。痛みと硬化に対しては水治療に限られていた。


中世ヨーロッパには、高い水準にあったアラビア医学が普及したにもかかわらず、古代に得られた知識に新しい認識を加えるものは事実上何もなかった。2世紀以降ローマ帝国が崩壊してゆくにつれ「痛風の研究に関してはすでに《暗黒の中世》が始まった」とメルツは言う。


中世が終わろうとするころテオフラトゥス・ボンバトゥス・パラケルスス・フォン・ホーエンハイム (1493-1541) によって痛風は《酒石》疾病に分類された。当時はなお学問と魔術が密接に絡み合っていたことを思えば、パラケルススは薬学の学問化とそれと結びつく関節病治療の変更を引き起こしたのだ。彼は中世の体液説を拒否した。彼の化学・生物的考え方で《酒石》疾病のもとにすべての関節病とリューマチの容態は含まれた。体内ですべての燃焼されたものの残余、あるいは食餌に含まれる酒石が害を及ぼす動因として作用し、そして地獄の痛みを引き起こすのだと。痛風薬としては食欲を増進する酸、そしてまたアルカリも処方された。


パラケルススは書物や伝統ではなく、実地の観察と経験に基づいて医学の権威を拒否した革新者でありながら、またしばしば錬金術師とも呼ばれる。彼はその呼称から想像されるような、卑金属を黄金に変えると語る魔術師ではなかったが、しかしながら根底は神の技・神の奇跡に疑いを持たない神秘主義者ではあった。通常の枠組みでは捉えがたい思想と世界像の持ち主であったと言うほかない。

彼の《錬金術》は医薬品を探求する中で生まれてきた術である。「ローヴォルト・モノグラフィー」シリーズの一冊、エルンスト・カイザー『パラケルスス』には、自らが錬金術について語った言葉が引用されている。
・・・自然から生じたものを人間に役立てる者、それをかくあらしめる者、自然のものをかく手立てする者、それが錬金術師であり・・・錬金術は金を作る、銀を作るなどと語る者が錬金術師ではない・・・これが大切なことだ:治療薬を作り、それを疾病に差し向けること・・・ここに治療と健康への道がある。これらすべてが終いには、それ無しには物が生じない錬金術に至らしめる。


よく知られたヒポクラテスの言葉、»Ars longa, vita brevis«「人生は短く術は長い」について、パラケルススは彼らしい解釈を示している。


我々の人生は短い、これは誰も否定しえない・・・我々は埃で影、日々溶けて薄くなりゆくもの、水面の文様に過ぎない。それ故我々の人生は他に比して短い。金銀は根源 Ens の火に至るまで在り続ける、石、塩も同様である。しかし人間は在り続けることなく、極めて短期間しか与えられず、期限も定まらぬ・・・術は長い、故にそれは発展途次にある。世界の初めから探求が始まり今に至るもなお終息しない。病気は速く術は遅い;それ故病者は時期を失う。何しろ医師は未だ術を極めるに至らず、医師が有する術の進みは遅々として、病はそれを追い抜くのである。


フィルヒョー Rudolf Virchow (1821-1902)は「パラケルススは古い医学にとどめを刺した」と述べた。そうだ、前後の文脈は不明なので、近代医学の先端を走った医学者と奇跡を信じる医師との関りはどこにあったのか判断できないが、公衆衛生への貢献(「水道」、「給水施設」、「ベルリンのコレラ」参照)も大きかったフィルヒョーと、チロルの鉱山で働く鉱夫に多く発生する疾病を取り上げた。パラケルススと、接点はその辺りにあったのかもしれない。

実験、観察と実地の経験を重んじるパラケルススではあったが、根底には神の技・神の奇跡を見ていた。そこには異教的な色合いもある。彼はそれを「奥義の哲学」Philosophia adepta と呼んでいるが、それを以下のように語る。


奥義の哲学を知ると、最初にかくのごとき教えに気づく。地上のものの上にあるすべてはいずれかのエレメントを持ち、天空の力と徳を備える、つまり地上のものが存在するところには天空の性質がある。地上のものの内なる天空の性質を知る者が奥義を極めた哲学者である。


だが内にあるものをいかにして知るか? 人間は知るべきだし、知らねばならないからだ。自ら知ることを我らに語ることのできない者は、内に何があるか知ることを誰も理解できない。それは文字でもっても同様だ。自然のモノはすべて死んでいる、しかし植物の内に何があるかを探求すること、そこに哲学の奥義がある。すべて隠されたモノに、すべて秘密の内に、自然の治療薬すべてを、一つ一つの植物、種子、根等々に見つけた者が、奥義に達する。



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