かなり悪いオヤジ

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わが母の記(2011年製作の映画)
3.7
実は生前の井上靖に偶然出会ったことがある。作家が次作『氷壁』の取材で、中央アルプスの宝剣岳を訪れていた時のことである。現役の作家先生にお目にかかれたことを、同行していた山好きな母親がとても喜んでいて登山中終始機嫌がよかったことを今でも覚えている。まだ小学生だった私はといえば、山小屋の片隅でファンの方々がせがむサインに丁寧に応じていた作家の姿をチラッと見かけた程度だったので、その時特別な感情をいだくこともなかった。中学に進級し、井上が書いた自伝小説『しろばんば』や『夏草冬濤』を読んだ時はじめて、その時のことがとても感慨深く思い出せたのである。

映画は、母親の八重(内田哉々子)と息子洪作の別れの場面から始まる。『浮草』の有名なワンシーンを真似た冒頭をご覧になって、この映画小津安二郎へのオマージュなのかと思った方もきっと多かったことだろう。しかし私が本作を見て“小津っぽい”と思った部分はそこだけで、たくさんの人が出入りしている沼津の本宅や東京の自宅は、まるで山田洋次の映画をみているかのようにワイワイガヤガヤと騒がしい。認知症の母親とその息子の葛藤がテーマになった小説だけに、母親不在の映画が圧倒的に多い小津風の演出はそもそもはまらない気がするのである。

台湾に疎開した家族と別れ、曾祖父の妾“土蔵のばあちゃん”に育てられた主人公伊上洪作は、自分をずっと“母親に捨てられた”と思っていたのである。映画前半は、伊豆の本宅で妹夫婦と暮らしていた八重(樹木希林)と作家として大成した伊上(役所広司)の確執が、ブルジョア的な暮らしぶりや豪勢な家族旅行を通じて生臭く描かれるため、観客がこの親子に感情移入するのはなかなか難しい。それがばあちゃん想いの三女琴子(宮﨑あおい)視点で描かれるのは、娘の結婚を心配する父親という小津的なストーリーを無理にでもねじ込みたかったからにちがいない。

そんなこんなでなかなかのり切れない前半に比べ、後半(樹木希林の迫真のボケ演技もさることながら)いよいよ八重の認知症がひどくなっていき、息子のことも誰だかわからなくなってくると、いよいよ物語は佳境へとさしかかってくるのである。そこには、もう山田洋次も小津安二郎も、そしてチェーホフ?もいつまにか消えていて、作家井上靖とその母親二人だけの世界が描かれるのである。息子を捨てたくせに息子を奪った“土蔵のばあちゃん”への恨みごとを家人に愚痴る八重。家人がいなくなってないかどうか確めに家中を徘徊する八重。作家も忘れていた初めて書いた詩のメモを巾着からとりだして諳じる八重...

八重の認知症の進行とともに、一人息子への愛が鮮明に浮き上がってくるエピソードが丁寧に積み上げられていく。そして老いた母を背中に背負った伊上は思うのである。伊豆の本宅や東京の自宅、そして、軽井沢の別荘と、姥捨てにする場所を探して八重をたらい回しにしていた自分の愚行に気づかされるのである。この映画はじめは小津安二郎だと思ったら、最後は木下惠介で終わるのである。『楢山節考』で“生き恥”をさらすことを何よりも怖れた田中絹代と違って、樹木希林はその“生き恥”をさらすことによって息子との絆を取り戻したのであった。