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精霊のささやきのニューランドのレビュー・感想・評価

精霊のささやき(1987年製作の映画)
3.1
【詳述は、『色道四十八手 たからぶね』’23-9-2欄で】『精霊のささやき』(3.1) // 他というか·メインは、✔️『エロス·なす娘』(2.9)『眠れる森の吸血鬼』(3.0)『WONDER WALL』(3.1)『奇術師』(3.0)『夢で逢いましょう』(3.7)▶️▶️

昔から、名前はポスター他で見聞きしてたのをやっと観た、昨年夏感想は別欄に書いたが、仕掛けや描写の鋭さのアマ的自由発想の試みは、可能性を感じさせたが、ラストのバラしがあっても、存分な成果は感じられず、やはり、8ミリて名を馳せたひとかな、と引っ掛かっていた。昨日は仕事、本日1回目は、12時台でまだ寝てる時間で無理、最終2、3回目を観る。2024年の2月、アテネフランセでの作者追悼、デジタル版完成記念番組にてだ。
まず、作家としての初期を過ぎた頃の、関西テレビとディレカンのTV用掌編、ビデオ録りで、色の道に染まりかけた加藤賢崇扮す若き僧が、上人の戒めと、如来の助太刀の中、丹精込めた茄子畑の精からのアプローチを受けて1夜の契りをほほえましく結び、悦びの反面の、 悔いからの5年の旅から戻ると、五歳の娘が待ってる。「親は茄子とも子は育つ」。
(異サイズ)切返しも、90°変、特撮使ってのトゥショットや仰俯瞰、移動の回り込みやフォロー·パン、言葉、役者、外してく照れや遊び心あるも、確かなタッチで、創作の核はしっくり窺える。
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そして、初期8ミリ映画時代の植岡。後年の35ミリ作品がタイムラグを使っても作品色合いが、特定出来ないのに対し、8ミリは本来の8ミリの未完性·欠損性抱えた自覚での、思いつき羅列というより、老成し完成された、次の16·35ミリへのステップの準備などではない、8ミリという、それだけで世界と歴史を完全版吸収·同化出来るという、辿々しさ無しの完成体となってる。思い上がり·ふてぶてしさなどはない。世の中の映画は8ミリだけで成り立つ、8ミリの見かけ上の弱さを含んだ、完全なる要求への応えぶり。
やはり解像度は甘く、ハイキーで屋外の白っぽいショット·シーンもあるし、役柄解釈より地金の方が強い俳優たち、特に大掛かりなカメラワークや抜き差しならぬ強い思い入れデクパージュは必要でなく、対象への、正確で微妙な(僅めの)退き·寄りのカッティングが感じさせる密着一体感が、形通りの敢えてぞんざいな切返しを拡げ和らげ息を通わせ、静的な印象も急なアクション·というよりそんなカットの連ねが思わぬ本質的動感を示す。海外の話を強引に据えても、地図やナレーションのアクの強い説明、俳優らの現地人になろうとしてかえって強い素人っぷりが近しさを与え·35ミリ作品にないナマの現実人間性の裾野広いリアリティを与える。ズームや寄るやフォローの移動も技法として効果を与えくる。猟奇的な内容が、8ミリ的アプローチでくだけて親しみと広い好奇心の生まれに代わる。手持ちもだが、フィクスでバチッと止め主体でカットを踏んでく、事も出来てく。
『~吸血鬼』は、アメリカのいなか町での、若い女性の生き血が奪われた連続殺人事件から入る。大学教授の主人公を、悪魔払い師としての密命を受けた、神父の友人が訪ねきて、事件を探る中、人類の前の地球の支配者らが、神の怒りで異次元へ追放されたのが、地球奪還に戻ってきた現れとしての、事件と分かってくる。神父の同行妹の清らかさへの憧れと内なる正体も。作品としては、ストレートな語り、ショッキング事件が、映画を拡げるくだけた本質コミカルなやり取りで、広い可能性を、狭い侭の磁場が持ってくる。ゆとり離さぬ含みの多さ。
『~WALL』はより、コメディとしてのはみ出しゆとり·尋常ならざる作品だ。瞬間毎のタッチのピタピタ格持つ決まり方や、動き出した時のスピード感伸びが、これしかない、と映画の全体の瞬間力をまんま作ってく。併せて、『~吸血鬼』等、これ迄の作品の投影と解説のシーンらの自己世界再開拓姿勢、スクリーン内·小スクリーン投影の胸の痛くもなりもする、味わい。
奇妙な瓢箪の連続強奪事件発生の頃、アラブか西洋的か、訳のわからない·いでたちの、8ミリ映画で世界の関心を惹き付けてる世界的映画巨匠の凱旋帰国。シンポジウムが続く中、繭状に籠ったり、内面の歪みが、実体化してもくる、変人。がそれが瓢箪事件も対峙·解明してく。
『奇術師』は、プライベートのはみ出し感を抑え、かなり純粋に映画表現を極めてく。息の長い独自移動や、その際も含め仰俯瞰ら角度のしょっちゅう、いつしか極め方。夫婦が偶然の縁で救い広い、住まわせてくアジア系労働者の、魔的能力の発散か、他の同居家族の姿を次々失わせてく。ホラーだがコメディ。ストレートに8ミリへの居直りを超えた映画表現そのものへの接近·密着。
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が、以上の作は、映画は8ミリ作だけで、表現や関心需要を充たせられる、8ミリの媒体として抱えた弱さすらかけがえのない魅力とする、大家·老成·オールマイティぶりで、フランスの嘗ての、今のイーストウッドに匹敵する、一番人気名匠J·デュヴィヴィエすら想起させる余裕·的確·多元性ぶりだが、見事だが個人的には瑞々しい開拓度合いの無謀意気込みがいっぽうで忘れがちな気もする。
『夢で逢いましょう』が、この作家の最高作なのは、今日観た8ミリ作では珍しい、既定の自己世界をはみ出した辿々しさが息づいてるせいかな、と思う。単純に映画の素晴らしさとしての、(品もいい、映画の夢そのものの)作であることの代表的作家、ノーラン·スピルバーグ·ヴェンダース·手塚らの、最高作と同等か上回るレベルのであると思う。本当はそれら以上のコクトー狙いかもわからないが。
シーンによっては白飛びめ、画質もいかにも8ミリを計算に入れた、前作までの作の8ミリに拘った完璧さに比べ、かなりの部分で16ミリとも見えるシャープな映像·その自然と衣装や装置の瑞々しさ、楽屋裏迄も感じさせる素のキャラ以前から、未知のドラマかファンタジーかのシラけを引き受けない領域への挑戦、回想や時制の区切りの為のモノクロコントロールは乱れてるも、製作の手触り自体が、特定を越えた映画自体へ踏み出してる。日常の側にも付いた描写は、まだるっこしいし、映画の構造よりも、心情がしっくり、痛い程に伝わってくる。やはり、映画は完成度などではない、様々な分野の演技への関わりが違う(後の)著名人が出ているが、初々しい以上にピタッ填まってる。特に兄と妹の近親相姦願望を、今の同性婚位の誰もが抱く切実であっておかしくなくした、目を愛おしく剥いたままの賢治役のあがた。全体の複相構造が組み立てられる以前からスッとはいる。日常や自然·映画自体にくっついた、空間の深さや構図内関連、また画面埋め方、伸びやかな移動絡み呼吸感、辰巳を初めとことん役者の悩み·希求感、原則的な衣装の係や群集、ごっこ的な天国や地獄の入口、OL等で玩具的乗り物も宙を飛び·願いも強力実現の夢の世界、やたらと対象へ寄る繰り返しあるなど·スタイルは揺れてるが手つきを感じる、同時に乗り物内主観的な合成的画面と主観速度の快調も、敢えてラストは別の(誰も感知できない·幼き頃より意識ない者の)大きな夢世界内でそれまでを括る『カリガリ~』的に。
亡くなる人を特定し引率する者、天国の入口でその記しの赤い花を白い花の魂に浄化して迎え入れる天使ら。地獄の悪魔は、死者に魂を要求し、望みが叶うを約す。邪念があるからと、妹の元を離れ、奇種の花を探しにでる兄。頭の弱いその妹は、兄だけに処女を守り兄を追い続ける。その強力な夢の世界は、天国から死者の魂を呼び寄せ、血縁の禁断を超えた恋を成就させ、天国などに欠員が生ずる等の混乱を巻き起こす。賢治と妹、自分と目的の花を見つけた直後自動車事故で死んだ兄。禁断の可能性としてはワクワクさせるも、内実は、世界の常識合わせに寸足らずの意識らの、健気で愛おしい、忘れがたい銘品。
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