ヤマダタケシ

暗黒街の弾痕のヤマダタケシのネタバレレビュー・内容・結末

暗黒街の弾痕(1937年製作の映画)
3.9

このレビューはネタバレを含みます

2022年9月 DVDで
 犯罪を繰り広げながら逃げて行く男女という点でボニー&クライドものを連想するが、多くのボニー&クライドが社会の価値観から逃避していく、或いはそれ自体を否定していくのに対して、今作は社会自体から追い立てられていく姿が描かれていたように感じた。何と言うか、積極的に社会に挑んでいくというより、むしろなすがままに社会から追い立てられていく感じ。
 だからこそこの映画はアメリカンニューシネマのような反抗する若者たちの姿ではなく、社会の中で一度レッテルを貼られた存在が、正しく生きようとするがそのレッテルやしがらみゆえにそこに戻れない話という側面が強い。個人的には、一部のヤクザ映画、特に前科者として負い目を感じながら生きて行くヤクザモノの映画、高倉健が主演のものとかを連想したりもした(夜叉、網走番外地とか)。
 しかし、ヤクザ映画のように過去を背負った男の姿がメインで見えるというよりは、前科者のレッテルを貼られ、いくら人生を立て直そうとしても上手くいかない男と、彼を信じてついて行ったことにより自らも転落していく女の姿を通して、彼らを拒絶する社会自体がメインで見える印象があった。
 基本は割とロマンスというか、悲恋の物語だったように思う。貧しさ、社会からの偏見に負けず一緒になろうとするふたりを社会が引き裂いていく。昔の映画を観ると、最終的にそのラストにきれいに着地するまでの様式美みたいなのを感じたりするが(そう思うと、『悪の法則』はその様式自体の理不尽さが面白さな気がする)、この作品は、その様式美がある種の残酷さを持っていたように思う。映画は、善人で真っ当な暮らしをしているエディの日常から始まり、出所してきたジョーンと再会するところからはじまる。オープニングの弁護士事務所では、どんな人間にも分け隔てなく接するエディの姿が描かれ、刑務所のシーンではこれから真面目に人生をやりなおそうとするジェーンの姿が描かれる。再会した二人は鉄格子越しにキスをし、結婚しモーテルに泊まる。決して高級ではなさそうなモーテルの中をふたりの楽園のように巡るシーンが、この映画の幸福度のピークだったような気がする。映画はここから一気にラストの〝向こう側〟にたどり着くまで坂道を転がり落ちて行く。そしてこのモーテルのシーンで語られるカエルの夫婦のエピソード、片方が死んだ時、もう片方も死んでしまうというのが、この映画自体のある種のテーマであり、ふたりが遂げるラストを早くも示唆している。
 映画自体は雨や霧の演出も含め、ラストに向かって主人公達をどんどん追い詰めて行く。しかし、そこで描かれる社会は必ずしも悪意一辺倒では無い。むしろ、主人公の周りにいる人々は少しづつ彼らの事を認め始める。特にエディの働いていた弁護士事務所の男は、最初はジェーンに対して懐疑的であるが、彼に濡れ衣を着せ、その上逃亡した彼らを捕まえようとする警察に対して憤る。ジェーンを説得しようとした神父は最後まで彼を助けようとするし、終身刑の男はジェーンを助けようと手を貸す。
 エディの善性とジェーンの誠実さが身近な人々を信じさせていく一方、社会の〝普通〟の人々は彼らをレッテルで見て拒絶する。最初のモーテルの夫婦や警察官たち、トラック会社の社長など普通の人々が向ける悪意こそが彼らを追い詰める。そして極め付けなのが、彼らの居場所を通報するのが、オープニングではりんご一個を警官にとられたことを憤っていた雑貨屋の店主だということだ。りんごを万引きされるのが軽いとは思わないが、ある種、その社会に対して〝正しさ〟を求める感じが、真っ当に生きようとするジェーンを追い詰めてくし、犯罪者として彼を見る世間の目が、エディを含めた彼らを犯罪者にしていく様が丁寧に描かれていく。分かりやすい悪人が出るわけでなく、彼らを追い詰める構造・差別の意識自体を描いている。

・とはいえ、仕事中に新居見に行っちゃダメ。分かるけど。そんでそういう人もいるけど