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パプリカのTnTのネタバレレビュー・内容・結末

パプリカ(2006年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

 今回、新文芸坐のマッドハウス50周年記念上映にて鑑賞、席はきっとお初じゃないであろう人々の熱気を感じた。満席、終映後は拍手もあり。

「最近、私の夢を見ていない」
 劇場環境の没入感が半端ない、これのために見に行った。「酔いや何故に無限と美杯」という平沢の歌詞に倣うように、殆どトリップしに来てた。あのパレードと、夢を縦横無尽に逃げるパプリカを見に。しかし同時に、映画もまた今作の描いたDCミニが目指す”夢の共有”だなぁと劇場鑑賞で染み染み感じた。

 読解するには複雑な作品で、もう何回も観てるはずだけどやっと本筋ちゃんと理解できた。氷室のこと女だとずっと思ってたし、粉川刑事の追ってる相手の正体もやっとわかったような。逆にもう理性的に見れるくらいには見まくってたので、理事長の最終目的が弱かったりとか思ってしまった。繰り返されるシーンや繰り返されるセリフの妙が上手い。その差異に唸ったり笑ったり。アニメ的な文法というより映画寄りな演出である。ちなみに島所長が狂うシーンの周囲の”気づき”視線はアニメの世界に映画的文法を組み込んだものだが、映画の視線の微細な動きのニュアンスと、ニュアンスとして意図した描きこみしかできないアニメとの食い違いが若干あるように思える。アニメ史というより、映画史に食い込もうとする感じあるのは、今作の言及する映画の引用の多さからもわかる。アニメ映画が映画史に肉薄できるかという挑戦作でもあった。結果的に、アロノフスキーやノーランなどの映画界の猛者たちを虜にする技術を今敏は持ち合わせていたのだ。

 逆にパレードシーンの風刺的な意味合いはわかりやすかったんだと気がついた。その風刺していたものも平成初期感があって、サラリーマンの自殺も援助交際も引きこもりもホームレスも、社会にあるが形を変えて偏在し、もしくは無いもののように影の薄いものにされてしまった気がする(もしかしたら一番の恐怖かも)。

「敦子が夢を見ている」
 ポカンとさせられるのはやはりクライマックス。巨人が少女に飲まれて、論理的な何ものも通用しない感じに、もうあの青空の抜け感で納得するしかないというか(そしてあの青空の方便には庵野秀明感も)。しかし、今回見た感じ、二項対立になった、もしくは分裂したもの同士が引き合わさることで解決するということの示唆なんかなーと思ったり。つまり、あの誇大妄想的巨悪を”倒す”のではなく、自らに宿すことで解決するという。幼さだけでなく老いも必要。理性には本能が必要。男には女が必要(そのせいか同性愛という中間の触れ方が微妙なニュアンスであった)。そして現実には夢が必要。刑事が忘れかけたトラウムと共に歩む決意をするように、片割れと共に歩こうということである、どっちか片方ではなく。敦子が自身の"夢"を取り戻すまでの話とも言える。

 敦子、岩下志麻がモデルかもしれない、顔も似てるけど「疑惑」並みの罵倒力だった笑。ポスタービジュアルとラストの巨大化といい、混沌を纏めるためのギリギリの鋳型としての女性像を彼女は体現する(そこには男の描写する夢の限界点があるとも言える)。

 技術(=夢)は人(=現実)を凌駕してしまう。いろんな意味で「ジュラシックパーク」と同じである。人間の想定の範疇ではない思わぬ負の側面が生まれる、それは「ジュラシックパーク」でひっそりオッペンハイマーが引用されたようにだ。科学者と表現者は今作で同じレベルで語られている。表現もまた、表現者が描く理想とは裏腹に一人歩きを初め思わぬ結果を招くものだから。
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