きゃんちょめ

スターシップ・トゥルーパーズのきゃんちょめのレビュー・感想・評価

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【『スターシップ・トゥルーパーズ』について】

『スターシップ・トゥルーパーズ』は、「訓練を受けていない人が自分の頭で考えること」の危険さと、「権利は義務を果たす能力がある人にだけ、その能力に応じて与えられるべきだ」という考え(=能力主義)の危険さとを描いた非常に深い作品だと思う。

劇中に出てくる旗はナチスの大鷲で、主人公の実家は、ナチスの残党がいたことで有名なブエノスアイレスである。

『スターシップ・トゥルーパーズ』で描かれる国家は、各人の自由を見かけ上は尊重しており、頑張ったら頑張った分だけ権利が得られて、頑張らなかった人には権利が与えられないという国家である。そこがとても怖い。要するに、原理的には、アメリカを作っている原理の徹底化が成されただけの国家だとも言えるからである。つまり、「ナチスを倒したアメリカだって、実は新たなナチスとなりうるのだ」というのがヴァーホーベン監督がこの映画で言いたかったことなのだと思う。

この映画が戦争賛美映画だと受け取られたらしいが、軍人の頭を虫が突き破っているこの映画のポスターのどこらへんが戦争賛美なのかむしろ私は教えてほしい。

「勉強して、エリートになって、自分の頭で考えてその結果軍隊に入ることを選んだら、それに見合った報酬がもらえる国(= たとえ女でも、黒人でも、貧乏な家庭の出身でも、とにかく国家のために貢献する能力があると証明できれば、その分だけしっかり権利がもらえる国)」は、かつてナチスを倒したけれども、ではこの国には危険なところがないのかというと、危険なところしかないのである。

この映画は、いわゆる「ノブレス・オブリージュ」という道徳に対する批判にもなっていると思う。勉強ができたり裕福だったりする人こそが戦争に行って共同体全体の利益に貢献するべきだという主張は、ともすると、弱い立場の貧乏人だけではなく、恵まれた人まで戦争へと動員する理論となりかねないし、「ノブレス・オブリージュ」を果たさない市民を平気で劣位と見なす大義名分にもなりかねないからである。

それから、実はこの映画で一番重要なのは冒頭の授業シーンだと思う。『カルメン』というオペラの主人公と全く同じ名前のカルメンという女性が、「どんな理想論や議論も力の前では沈黙します」という発言をしている。そして、そのカルメンの発言をジーン・ラズチャック先生は褒め、「そのことは歴史が証明してきた」と発言して肯定する。そして、実際そういう歴史観も全然ありうるのである。だから、このシーンを見て、このような社会に少し惹かれてしまった人もいるのではないだろうかと思う(これは少々脱線だが、この授業中に暴力の意義に懐疑的なディジーと暴力こそ重要だと考えるカルメンというふたりの女のどちらが好きかという問題も実はこの映画を考えるにあたり重要な問題だと思う)。

つまり、「圧倒的武力こそが物事を解決するもっとも有効な手段だ。「暴力では何も解決しない」などという考えは甘ったれの戯言にしか過ぎない。それは歴史が証明している。」というラズチャック先生のセリフに、なにかただならぬ魅力を感じる人もいるのではないか。それこそがファシズムの魅力なのである。ラズチャック先生は、同じ場面で、「なぜ市民の方が一般民より権利が多いか」というと、「自分で勝ち取った権利の方が与えられた権利よりも重要だから」と発言する。まさしく「君たちが失なった生きる力、リアルパワーとしての暴力を取り戻しなさい」と先生は若者に呼びかけているのだ。間接的なお題目ではなく直接的な力が欲しいという気持ちにこの映画は応えてくれるのである。

「与えられたものに何の価値があると言うんだね。本来投票するという行為は政治的な力の行使、力を使う。力とはすなわち暴力だ。この世の全てを支配する最高の権力と言い換えてもいいだろう」と劇中の冒頭でラズチャック先生がいうように、実は投票行動とは体制転覆のためにも使える暴力が平和的な仕方で表現されているだけだとも言えるのだし、世界史を動かしてきたのは、思想ではなく、リアルな暴力であるとも言えるのだ。

そして、こうした実行力としての暴力を回避する平和的民主主義は歴史上どのようになってきたか。そのような政体では何も決められず、喧々諤々の議論をしているうちに外敵は侵入してきて、その政体は滅んできた。正直者はバカを見るのである。だからこそ、この映画の中で成立している社会ではむしろ暴力を人は隠さない。有罪人を殺す国家の暴力はテレビで生中継される。地球を守る暴力、国家を維持する暴力としての軍隊に入る人々が誰よりも尊敬されているのだ。だからこの社会では、貧困層が軍隊に入るだけでなく、金持ちさえ軍隊に入るのである。そしてこの暴力の行使ができる人にしか市民権もないのである。「有事の際には実際に国を守るために戦うという覚悟と責任のある者のみに発言権を付与せよ」という政治政体なのだ。このような現実的で、力強い発想に惹かれてしまう若者もいるに違いないのである。

しかし、どうだろうか。ここで少し立ち止まって、ラズチャック先生に対する反論を考えてみたい。

暴力が大事なのは認めよう。また、暴力は生きる力そのものと直結しているから、暴力礼賛には一定の魅力があることも認めよう。しかし、本来の暴力とは強制を跳ね除けて「暴れる力」であったはずだ。それなのに、この映画で描かれる暴力は、多方向的に爆発しうるはずだった本来の暴力をむしろ一方行的に固定してしまっており、描かれているのは実は、去勢された暴力になっているのではないだろうか。つまりこの映画で描かれる暴力は本来の暴力なのだろうか。むしろ、暴力が利用されているのではないだろうか。

実際、そうなのである。主人公は、勉強がからっきしできないのに、「自分のことを自分で決めるのが我々の持つ唯一の自由だ。わかるなリコ。自分で考えるんだ」とラズチャック先生から言われている。しかし、こんな軍国主義が全盛の世の中で、バカが自分の頭で考えるなんてことをしたら、その結論はどうなるだろうか。分かりきっているではないか。そう、軍隊に入ることを選ぶに決まっている。本来の暴力とは、そこで不謹慎な絵を描くアーティストになったり、国家転覆を狙って警官隊と激突する学生になるというような多方向的な力でもあり得るのに、この国家はあらかじめこうした暴力の多方向的な発露を封じているのである。(自分の頭で考える訓練を受けていない人にいきなり手放しで自分の頭で考えさせるのは危険だと思う。こうなるくらいなら「メディアの意見とかをちゃんと聞け」と言っている方がまだマシである。もちろん、ファシズム体制下ではメディアにも嘘つきばかりなので、だからこそファシズム国家が出来上がる前から、自分の頭で考える訓練を小さい頃から積んでおく必要があるのだ。この映画でも描かれている通り、「自分の頭で考えろ」という教えは、「なんでも自分が好きなものを信じていい」という意味だとすぐに誤解されるのである。)

そう、実はこの社会は、暴力を全面的に礼賛しているようでいて、実は体制派にとって都合のいい部分だけの暴力が搾取されている社会なのである。一旦人々に暴力を取り戻させてから、それを都合のいいように搾取する、というのがファシズム国家の常套手段なのであり、それをここまで克明に描けるポール・ヴァーホーベンという監督はやはり天才だと言わざるを得ない(ちなみに一番バカそうに見える軍人が実はバイオリンが弾けるのもヴァーホーベンっぽくて好きなディテールであった。『ブラックブック』におけるフランケンを思い出すからだ)。

暴力に限った話ではない。この『スターシップ・トゥルーパーズ』で描かれている社会では、美辞麗句がたくさん流れているのだし、一瞬は近未来におけるユートピアの実現かのように見えるシーンもあるのだが、実際には全てが見かけ上のことであり、実際には虚妄でありディストピアである、という場合がとても多いのだ。

例えば、能力主義の『スターシップ・トゥルーパーズ』の世界では、能力以外のあらゆる人を分ける基準は差別として撤廃されている。だから、シャワールームでも男女は一緒に入るのである。黒人も活躍しているし、女性の社会進出も明らかに現代の日本よりも進んでいるように見えるのである。カルメン・イバネスが副操縦士をやれているし、女の子でも艦長になれたりするわけだ。しかしこうした一見「公平」に見える能力主義も、結局はその能力とやらの基盤には全く公平とは言えない貧富の差があり、能力差もその貧富の差を反映したものに過ぎないことを隠しているように見える。実際、無能なデクノボウ扱いされていて訓練中に死ぬ男は農民出身らしかったし、市民よりも劣位に置かれている一般民たちの生活はほとんど描かれていない。主人公のリコの家は金持ちであり、ハーバード大学への進学を進められていた。さらに言えば、前述したように、能力主義と言ったって、評価されるのは体力とか計算力といった、即座に軍事に応用できる能力なのであって、例えば芥川龍之介のような文学青年の能力はあの社会では決して評価されないだろう。この社会は、「能力」の概念をあらかじめ骨抜きにしているのである。

他にも虚妄はこの映画の中にたくさん発見できる。例えば、この社会、若者の出世が早くて良い社会に見えるかもしれないが、全然そんなことはない。『スターシップ・トゥルーパーズ』の世界では、主人公のジョン・リコみたいな下士官がとてつもないスピードで出世するんだが、それは「全体として自国側が負けている戦争だと、上官や同期の兵士がどんどん死んで行くから出世のための競争に勝つ必要がなくて、ただ偶然生き残ってるだけでどんどん出世しちゃうから」なのである。例えば、敗戦する直前の日本でも昔、軍隊に入るとどんどん出世できたわけだが、それはむしろ戦争で負けていること、そしてそれを大本営発表がひた隠しにしていることの兆候だと思う。主人公は最後に軍曹にまで上り詰めるが、それも、実は単にどんどん味方が死んでるからというだけだと思う。実は人を使い捨てにしているだけの社会なのである。

それから、この社会、能力主義が徹底されているから性的役割分業に関してかなりニュートラルにも見えるのだが、そんなことはないと思う。戦争している敵のボス(=brain bug)は、射精されたばかりの女性器の形をしていて、頭部の裂け目から白い液体が垂れているというとんでもないヴィジュアルなのだが、敵のボスがこうした形をしているのは、なぜだろうか。私が思うに、これは『スターシップ・トゥルーパーズ』の軍人たちの行動原理が、深層心理レベルでは、女性を見つけ出して、引きずり出して、レイプして、支配したいという、単なる凡庸な拡張主義・凶暴な植民地主義なのであり、それは抑圧的な男性原理なんだということのメタファーだと思う。実際、カールという超能力者が、この敵のボスの気持ちを読み取ると「怯えている」と発言するシーンがあるし、さらにこの映画のラストシーンでは女性器型の頭部の中にペニス型の棒を挿入するシーンまで映っているのである。

しかも、この映画では先に攻撃をしたのはバグズではなく、人間たちだという設定になっている。

つまり、この映画、すべての魅力的な言説や表現がよくよく考えた上で一皮めくると、実は人を興奮させておいて、その力を吸い上げるために作られた嘘なのである。

ファシズム政権下の社会に典型的な、異常な高揚感と、全てが実は嘘であるということからくる胡散臭さをこれほどリアルに表現した映画を、私は知らない。


【余談:一昔前のSF作品を見る魅力】

一昔前の SF作品を見る魅力というのは、今よりも未来の話を描いた作品のはずなのに、たとえば1980年代に描かれたSF作品の中の世界では未だにiPadのようなタブレット端末が普及しているようには見えなかったり、パソコンのディスプレイが「ブラウン管かよこれ」と思うくらいおそろしく分厚かったりと、実はその作品が作られた時代の人々の想像力の限界が露呈してしまうところです。


【さらなる余談:プラズマバグ】

ちなみに、劇中に出てくる「プラズマバグ」ってかわいいですよね。お尻から青い光を出して宇宙船を撃ち落とす担当の虫たち。あれめっちゃ可愛くて好きです。
きゃんちょめ

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